「一周年記念」というと事実とは違いますが、この人に初めて写真を撮らせてもらったのは昨年の6月のことでした。
その時にも「水」に触れることが一つのテーマでしたから、そういう意味では水のある情景に何度もお付き合いいただいているという事になります。
これまでの書いていますように、私自身が夏とその明るさ、暑さが好きなものですから、ついつい・・・・。

昨年はなぜか好天と幸運に恵まれて撮れることが多かったのですが、このところ天候が我に味方せず・・・ということに、
「私は大概良い天気に恵まれることが多いんですけど・・・・。」とあたかも私にその責任があるかのような・・・。
今日『天気がいいといいなあ』と思っている人は全国に何十、何百万人といて・・・そのうちの誰かに責任があるんですよ。
その人はほかの何十、何百万の「晴れ女」「晴れ男」の威力に勝る力を持っているのでしょうね。

今回どういうものを撮りたいか説明をして一応了解をいただいていますから、何としても晴れて、暑くなってほしかったのですが。
とてもスケジュールの込んだ人ですから、そう度々チャンスをもらえるわけではなく・・・・、この人のように撮りたい絵に応えようとしてくれる人はほかにあまりいませんし・・。

この人がたまたま、ある思いから「今」を残しておきたいと思ってくれているのでこうして撮らせてもらうことができているわけで、そういうことがそういつまでも続くわけもなく・・・・。
それでも私にとっては幸運な出会いではあったわけで・・・・・。

今日もちょっと負担の大きい時間帯に出てきていただいています。
空一面に雲が広がっていますから水が青くなりません。 私の好きな積乱雲もありません。
それでも・・・撮りましょう!!

水はそれほど冷たくはありません。 でも泳ぐとしたらもう少し北上したいところです。 えっ?! 泳いでもらうのかって?! いえ、私は水着やヌードにあまり興味はないので、それはお願いしていません。
でもっととした趣向はお願いしているんですが・・・・。
それを撮るチャンスはできるでしょうか。

京都市内とは違って広々とした空間に来ていますからそれは喜んでくれているようです。
- 2015/07/31(金) 00:03:14|
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たくさんの中国人観光客を引き連れてツアコンの女性がやってきました。
白い服に身を固めていかにもできる!という感じの人で、実にてきぱきと行動的です。
その人が、この写真お人に何やら話しかけているのですが、日本語?!!!?
なぜ?!が付くかというと、そのツアコンらしき人は、
「あの人中国の人ですよね?!」 「ええ、そうです。」 だからです。
「よく聞き取れなかったけど、今の日本語だよね?!」 「ハイ。」

この人の顔立ちは中国の人が見ればすぐに同胞だと分かる顔立ちですし、何しろ中国語でお客さんを呼び止めているのです。
????
でも、ツアコンと思しき彼女の言動に中国人の気質というか、海外で働く中国人としてのプライドというか…そんなものを感じました。

今度、某大学では留学生用の寮を立てました。それだけ多くの留学生を受け入れているのですが、いっぽう住まいを探す留学生に対する差別的な扱いが依然として残っている現実の反映かななどとうがった見方を私はしています。
中・韓の学生やアジア系の学生はそのことに直面します。
最近、アラブなどのイスラム系の学生に対しても厳しい環境があるとも聞きます。

世界中の戦争に首を突っ込もうという「国際化」を推進している日本の、どういう国際化かという事が国民レベルで、はしなくも現れているように思います。
でも、日本人の中にもたくさんの友好的な人々がいて、留学生たちを支援しようとする活動が見られます。
そういう活動が戦前からも続いています。まして今はなおさらです。

私は最近では中国の鉄観音茶やジャスミン茶を愛飲しています。そして、なるほどこういうおいしさを楽しんでいるの科と感心させられることがあります。
それでも私の好物は静岡県の緑茶なんですね。ことに川根の新茶なんですよね。
掛川のお茶も切らしたことがありません。 と言っても掛川でなくとも袋井でも磐田でもおいしいんですが。

夏場になって緑茶の水出しを楽しんでいます。
中国茶のおいしさを教えてもらって、日本の緑茶の個性がまたひときわ楽しめるようになりました。
「今日はありがとう。 謝謝、再見。」
- 2015/07/30(木) 00:01:31|
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以前イタリアに行ったときに、街の市場で日本人の若者が店で働いていて、奇妙な感覚にとらわれたことがありました。
海外で母国語を聞き、同じ日本人に商品の説明を聞く。
そして、なにより、若者が海外に出て自分の思うところを求めて頑張っている姿はとてもいものでした。

途上国の道を懸命に駆け上っている中国は、様々な歪みや行き過ぎを見せながらもそこにいやおうなしに肯定的なものも実現していきます。それは日本などの少しばかり先輩にあたら国々の国民が同じように経験してきた道です。
その大きな波の中で・・・中国は規模が大きいですから、怒涛のようなという感じですが・・・・中国国民の一人一人の人生が織り込まれています。

若者の海外への留学が特異なモノでなくなってきている中国。
大量の人が海外旅行を経験して、おそらく「井戸端会議」で海外での見聞が交換される日常を持つようになりつつある中国。
彼らが親族知人への大量のお土産を買いあさる姿が揶揄されますが、それを届けた時に咲かせる日本で見聞きした経験が・・・それもまた桁違いに大量の情報として・・・どういう内容のものとなるだろうか、それがまたどのような中国の変化に肯定的・否定的に働くことになるのかを想像する能力を持たないといけないと思います。
数十年の歴史的スパンの中で、こうしたことは結局東アジアの平和のために貢献すると私は思っています。ただ、そのことを日本人が自覚的に意識し、よりよい「思てなし」を志せるかどうかによっても違ってきますが。

中国東北部からの留学生は相当な数に上るのじゃないかという印象です。
この愛らしい女性も大連からですし、その先輩・・・奥に行ってしまいましたが、・・・吉林省の出身だと言っていました。
観光バスで乗り付ける多くの中国人観光客たちに「緑茶はいかがですか?」と・・・もちろん「绿茶怎样?」でしょうが。・・・試飲を進めています。
中国語で呼び止められた人たちは足を止め冷たい緑茶を口に含んでは、「じゃあ、それもらうわ。」といっているのかどうかわかりませんが、買い求めていきます。
そして話は商品のことからいろいろな分野に広がっているようです。

留学生たちはいろいろな店でアルバイトをしていますが、多くの人が「2年くらいです。」「半年です。」・・・と、日本に来てから何年?の質問に答えます。
そしてその日本語の巧みなこと。
こうして培われたものが日中の相互理解に役立つ日があることは確実です。 もし政治家や相互の国民が賢明であれば、一層よい形で。
- 2015/07/29(水) 00:02:44|
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対岸までとてもいい音が流れtれきました。
『うまいなあ。』と思って、橋を渡りしばらく聞かせていただきました。

プロではないとおっしゃっていましたが、サックスの魅力の一つである甘いソフトな音を出されます。

フジで撮るとサックスの金色がこんなに魅惑的な色に撮れます。
ケースも反射と質感がいい感じです。
いろいろ不満があっても、この色を見ると、ある場合にはぜひフジで撮りたいと思いますね。
勿論こういう濃厚さがいつも必要だとか、欲しいというわけではないので、ソニーでよいのですが、・・・・。

でも使い方が下手なので、確実には撮れません。 XT-1ならいいんでしょうか。
記憶の片隅に、この人に以前も撮らせてもらったことがあるという印象がありましたが、やはりそうでした。
その時の写真は喜んでいただけたようですが、今回はちょっと疑問です。

実はこの人が練習をしている情景がとても良くて、ほとんど別のアングルで撮っていたものですから、このブログには採用できませんでした。

- 2015/07/28(火) 00:02:19|
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最初にお目にかかった時に、この方が窓の外を背にして腰かけ、私が室内から外を見る形で対座した。
明るい外の光と逆光に包まれて陰に沈んだこの方の相貌を撮りたいと思った。
それがこの方の作品にふさわしいと思ったから・・・。

でも、その時に「撮影を・・・・。」とお願いすることはしなかった。

なにかわからない心理的な抑制が働いた。
それにふと思い出した用事の時刻も迫っていた。
残念だった。

それで改めてギャラリーに伺い、そこにおられたお客さんたちもまじえてお話をすることができた。
良い仕事をしている方の周辺にはやはり良い人が集まるようで・・・・。(私まで入れちゃいけませんが。)

「撮れた写真のなかから引き伸ばして使うようなことがあっていいか?」と訊かれて・・・・一瞬戸惑った。むろんOk以外に返答はないわけだが、肝心なことは使えるかどうかだ。
使えないような写真を撮るようなことで「写真を撮らせてほしい」などと言えるはずもないでしょ?という事かも知れない。
そう思ってたじろいだ。

私など、まだまだ写っていたら嬉しなあというところが多分にある。
私のカードを見て随分評価してくれて気恥ずかしかったがうれしかった。
「以前来られたプロの写真家の方も写真家として活動したらいいのにと言っていたのですよ。」とギャラリーの若いオーナーが付け加えてくれて、うれしいには違いないが、それはどうも困ったなあというのが正直な気持ち。
その覚悟のないものが写真家などには決してなれない。 一番肝心なものは才能でも熟練でもなく「覚悟」だからだ。

そういう点で、この方には現代芸術家としての「覚悟」をひしひしと感じさせられた。
- 2015/07/27(月) 00:00:15|
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「福島第一原発から約10キロ圏内に位置する福島県双葉郡浪江町は、今も放射線量が高く帰宅困難地域である。震災当時を伝えるこの新聞は、浪江駅近くの販売所に、配達されずに放置された2011年3月12日と13日の新聞だ。紙面では、東日本巨大地震の規模の大きさや津波の被害、避難する人々の混乱した状況が記されている。中でも、福島第一原発一号機の爆発を伝える緊迫した記事からは、震災直後の生々しい記憶が蘇る。
あれから4年が経過した現在、日常から失われつつあるものは様々で、時が進むほどに薄れていく記憶の風化は止められない。しかし、私達の周囲の時間の経過、その動きを刻む行動、その知識に意味を与えるためには、社会に問いかけ事実をつなげる活動が必要だ。[2011312313]は、記憶=存在=認識を視覚化することで、現在も近未来の社会でも起こりうる危機的な現実が立ち現われてくる。」
個展に向けてのメッセージを引用させた頂いた。 これはもうこのままお伝えすべきだと思ったからだ。
「絵画」に分類できるわけではない、いわば写真であるが、・・・・。
作品は黒く濃く焼かれていて目を凝らさないと、そこに何が描かれているのか判然としない。

大きく引き伸ばされた新聞が展示されているのだ。 それが先のメッセージにあるように、2011年3月12日と13日のもの。
東京電力福島原子力発電所が深刻な損壊状態になって大量の放射性物質を放散した。
政府も東電も被害の実態をつかめないばかりか、被害を小さく見せよう、でき利だけ隠蔽しようとするほとんど本能的な対応に終始して、人々は被爆被害からの非難を遅らせてしまった。

私は11日の夜ある仕事のために10人を超える人たちとある会議室に待機していた。
そこに東北の大地震と引き続く巨大津波の襲来、さらに福島原発の深刻な…と言ってもその実態は不明だったが・・・損壊の様子がテレビジョンから伝えられてきた。
私と同じテーブルの同僚たちは、私とともにその深刻さの予感から、じっとしていられない衝動に駆られていたが、他の100数十人の人たちの冷静というか無関心というか泰然自若とした反応には信じがたいものを見る思いだったことを覚えている。

福島の新聞社もテレビ局も、それ自体が深刻な打撃を受けていただろうから情報は錯綜し、確認できる情報量は極めて限られていた。
だから翌日の一方は東北全体での死者数が30余人と報じられている。
しかし、新聞社の記者たちも編集者もおそらくは決死の形相で責務を果たそうとしたのだろう。

そして震災の翌日には新聞は印刷所から各新聞配達所に運ばれたのだ。仕分けするものもトラックで輸送するものも、配達所で受け取るものも、集まらない人員で足りないトラックで、今日やらねばならないことをやり遂げようとしていたのだ。
原発はその時メルトダウンに向かっていたし、破壊された建屋からは放射性物質が大量に拡散し降り注いでいたその福島で。
新聞は13日にも配達所まで届けられている。ただしかし、そこから各戸に配達することはできなかったようだ。
非難を急がねばならない状況下で、記事を書き、編集をし、印刷そして、トラック配送に携わった人たち・・・。
しかしそれを手にすべき人たちはすでにいなかったかもしれない。

吉田さんは、この新聞の内容や、状況について声高な物言いはしていない。
しかし、その後の犠牲者の数を知る者にとって、避難の実態を垣間見る者にとって、この黒く焼き付けられた、見出しぐらいしか読み取ることのできない巨大な新聞の陰を見てることは、見るものと震災の今日的事実との対話を迫られざるを得ない。
今日の写真の初めの4枚は彼の「凝視」を意識して撮った。
- 2015/07/26(日) 00:00:40|
- 絵画
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季節の移り変わりとともに植物も光もどんどん変化していきます。
これを撮らせていただいた時から見れば、今、季節はぐんと進んで、まさに夏本番。
周囲はずっと変わています。

その変化の中で人を見るとまたまたイメージが変わり、こちらのモチベーションも変わります。
ですからまた撮りたくなるんですね。
でも、現実はなかなかそうはいきません。 学業や仕事を「本分」としている人たちの好意に甘えて撮らせていただいているのですから、こちらの思うようにはいかないわけで・・・・。

幸運にもお相手いただける人が続くこともあれば、大概長い長いブランクがあるのです。
この人もそうなのですが、ある種ピンとくるというか、あっ、今撮りたい写真にマッチしているとか、うん、こういう雰囲気がほしかったんだとかいう感覚が働くときがあるかと思えば、どうもそういうアンテナが休止状態になることもあるようで・・・・。
なんだか不思議ですね。

この人は聡明で人柄もとても良い人ですし、外見も素敵なのですが、もっと夏色で撮りたいのは無論ですが、何といっても深い秋色で撮りたいと、密かに思っているのです。
緑が輝きだしたら…お願いしますと言って、こうして実現できたのですが、秋が深まったら・・・とそういうお願いができるのかどうか、また今度会えれば聞いてみたいと思っています。

というのも、笑顔が素敵な人なのですが、一方、やはりこうした深い表情の時の魅力は一段と惹きつけるものを感じるからです。

- 2015/07/25(土) 00:03:09|
- 人物
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対面して撮っているときには話しながら、さすがに時々カメラを意識されましたが、描いているときにはまるで無関心な様子でした。
私が立とうが座ろうが、寝転ぼうが・・・それはそちらの事情で、勝手にやってくれという風情でした。

こういう尊重のされ方と言うのが撮る側としては実に快いのですね。

(事実上)初対面の大人同士で、こういう風に接してくれることが、これもまたうれしいことで、・・・写真というある意味自分の生のままをさらけ出すことになることに付き合ってくれるのですから・・・・・
「まあ偶然でもあるし必然でもあるんだろうね、こういう風に出会うということは・・・・」と私と同じようなことを考えておられるらしい・・・・。

私は人から見れば付き合って楽しいというような人間では全くありません。
そういうコンプレックスの穴埋めとしてこうして人物写真を撮っているのかなあと思うことさえあります。多分実際そうなんです。
ですからこういう呼吸の中に入れていただいて写真を撮れるなんて時にはワクワク感はとても大きくなるのです。

高校時代小説や詩を書くことに熱中する時期が・・・・多くの人が経験することだと思いますが・・・ありましたが、あまりに自分をさらけ出すことになるので、とても自分にはやりきれないと早々にやめました。周囲に異常な才能が幾人も存在していたからということも大きな理由としてありましたが。
今使っている「ペンネーム」はそのころのものです。

実は…なんていまさらいうことではないですが・・・写真もまた自分をさらけ出すものであることは間違いないのですから、その恥ずかしさにどう対処していくかと言うことはやはり今でも私にとっては面倒な課題ではあるのです。
まあ、その一方で、どこかに「俺が俺が」という自己顕示の気持ちも強くあるんでしょうね。
気恥ずかしさと自己顕示欲とがせめぎあっておろおろしながら撮っているということでしょうか。
それを素敵な出会いが、出会った人たちが背中を押してくれるのでかろうじて『撮ろう』というほうが勝つことができているのでしょう。
どうですか。こんなシャツを着て街を歩いてみたくないですか?
こういう写真を組んで、グループ展に臨むのもありでしょうか。


- 2015/07/24(金) 00:00:21|
- オブジェ
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カテゴリーは「オブジェ」になっていますが絵も描きます。 紹介は造形作家です。
私は門外漢ですから、この人がどれほど有名な方なのか知りません。
ですが、このギャラリー、JARFOといいますが、その20周年特別企画展第一弾に選ばれるほどの人です。
昨日、先着しておられたお客さんもこの方の友人で陶芸家でした。
私が撮りたいものの一つが作家たちの制作の姿ですから、ワクワクします。
この長い定規は永い間使っているもののようですが、「このシしなりなんかを感じながら紙に向かうと気が入るんだよね。」といかにも年季の入った定規です。
モノが五感に協動するんでしょうか。
そういうものかもしれません。良いカメラを持つと感性が働く感じがするのと同じでしょう。・・だから私はファインダーにこだわるんですけど・・・・

これをチルト式、バリアングル液晶画面で見て撮れば、コンクリートの床にあおむけに寝たり腹這いになる必要はないでしょう。
ですが、私は仰向けに寝て、腹這いになってファインダーをのぞいて撮るほうを選びます。
絵を見て撮るんじゃなくて、対象を見て撮るという感覚が…あくまで思い込み的感覚なんでしょうが・・・・欲しいんですよね。

仰向けになってカメラを構えているところにギャラリーの責任者の方がドアを開けてはいってこられました。
高齢者があおむけに倒れている!!すわ!何事ならん?! と一瞬驚きの声。 そりゃそうでしょう。
まあしかし、多かれ少なかれ変わり者である作家たちに普段から接している老練の方ですから、何だそういうことか、「コーヒーでも飲みますか?」
この個展のサポートをしてくれた若者へのお礼として白いシャツの背中に絵を描いているのです。
それが、ささっとサインをするというようなのではなくて、これ自体一つの作品となる意気込みなのです。代表作のデザインを再現されているようなのですが、これはおしゃれなシャツになります。
多分「おしゃれなシャツですね。」では済まないものなんでしょうが。
正直、私も欲しい。

今年、文化勲章をもらうほどに功績のあった伝統工芸士の方をそれと知らずに気楽に撮っていたほど無知が取り柄の私ですから、この時もただただ「楽しい!!」で撮っているわけで、・・・・。

こういう時に、つい自分の腕や知識の不足を顧みないで「もう少し高性能なカメラであれば」なんて不遜なことを考えてしまいます。
もっと思い切って感度をあげればよいのではないかとも思うのですが。
α900の高感度性能もAF性能も最近のものと比べればやはりいささか届かないきらいがあります。
ですが、それでもこれは手放せません。

撮る対象に恵まれているのですから、そこから一歩も二歩も進まねば。

和田さんと、この麻谷さんの専属カメラマンになったら、どんな未知の世界を見ることができるんでしょう。
麻谷さん、後で後悔しても知りませんよ。
- 2015/07/23(木) 00:00:17|
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「専属写真家になって!」
こういわれた時には驚きました。 まあ楽しい会話の中での座興のような言葉だったと言ったら、おそらくそれを口にした氏は怒るかもしれません。案外真面目におっしゃっていたようにも思います。
「出会いだよねぇ。いいよ好きに撮って。どう言う風に撮ってもいいよ。とにかく任せるし。こういうことってあるんだね。」と氏。

「多孔層・・物皆一点ニ集マル」 という作品展にお邪魔した時の話です。
会場に入るや否や作者が近づいてきて、作品について丁寧なお話をしてくれたのです。
たまたま観覧者が途切れた時だとはいえ、なんて懇切な方だろうと思ったのですが。
それが、まあ腰を掛けろと椅子をすすめてくれて・・・。

「ところでお前は何をしているのだ? 絵を描くのか?」と尋ねられるので、「楽しみで写真を、それも人の写真を撮っている。」と答えました。
会場には縦横1.2m×2.0mくらいの紙が敷かれて制作途中でした。
個展をしながら制作そのものも見せようというのです。
しかも会場に机を持ち込んで画材やらワインやら過去の作品が置かれて「まるでアトリエが引っ越してきた」ような空間です。

「作家さんが制作するときなどぜひ撮りたくて・・・。」と漏らすと「じゃあぜひ撮ればいい。撮ってくれ。」と言われるのです。
「こういう気分になるもんんだねぇ。出会いだねぇ。」とおしゃるのです。
ここは照明も暗いし、第一誰かの専属で撮れるほどの腕も気概もないのですから当然尻込みの気持ちがわくのです。が、「ここで引いたらこういうチャンスはないぞ!!」と頭の中で声がして、とにかく撮り始めました。
自由に撮っていいといわれてとるのです。食べていようと欠伸をしていようと、この人の人となりというか作家としての魅力を気兼ねなく探せるのですからこんな愉快なことはありません。

今はお互いに話しながら撮っているのです。
あの作品はなぜあんなに穴をあけたのだとか、以前、京都のどこかで外書のページに高瀬川近辺のスケッチをした作品を出したことがあるでしょとか・・・。
そうそう半年くらい前にやったことがある、あれを見たのか。
葉脈とグランドキャニオンのような地形とは共通性があるだろ? と地図に蓮の葉のようなものを広げれ重ねている作品を見せる。ところで、あれは俺が頭の手術をした時に医師から譲り受けた俺の頭の血管の映像だ。やはり共通性があるだろ。そういう共通性に関心があるんだ。

「香」の老舗に行って「香を練ったもので作品を作りたいと言ったら、重役たちに大反対を食らった。けれど社長さんが、いいじゃないかやってみたら面白そうだと了承してくれて、これがそうだ。」
触ってみるとよい香りが立ち上る。
「香の店の社長さんでも医者でも面白い人がいて、それを素材に作品にしてみたいというと共感するような人がいるものだ。」と、この人自身の想像力が枠を外れている。 面白い。

およそ芸術作品の素材となったことがないようなものを「これで作ったら・・・」と発想が止まらないらしい。そうなると直にそれを持っている人、それを作っている人にあたる。上の写真で見せてくれている作品も「考えてみたらとんでもなく高価なモノになってしまう」ような素材で作られている。 「考え」直してみるまではそれに気づかぬほど集中していくタイプらしい。そこに面白みが横溢する。
酒はまずいんじゃないの?
うん、飲み過ぎないようにしてる。 過ぎるかすぎないかの問題じゃないような気も・・・・。

撮った写真が欲しいというので翌日と届けると、思いのほか喜んでくれて、これはいいと繰り返す。
私は写真の世界の人に褒められるのもうれしいが、敢えて言えば別のジャンルの作家さんたちが評価してくれることの方がうれしい。
今から描くから撮れ、それが翌日の課題だった。
- 2015/07/22(水) 00:00:17|
- オブジェ
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2011年4月から始めたこの活動で、お願いして撮らせていただいた方が882名。
ですから、時折「以前にも撮らせていただきましたね。」という方にお会いするようにもなりました。
「撮ってもらったのでブログを見せてもらったら知人がすでに登場してました。」というケースもあります。
少々京都が狭くなりました。

「もう一度いいですか?」
「ああ、いいよ。」と言っていただいた時に、前回の撮影が不愉快なモノでなかったと安心もします。
「職人の仕事に関心を持ってもらえるだけでもうれしい。」ともいわれます。

撮影を始めてシャッターを何度も切っていると
「きちんと撮ってくれてるなあと思って仕事に気持ちが入る。いいカメラのシャッターの音はいいものものねぇ。」
良い構図や、よい瞬間を探してシャッターを切っていると職人の多くの方が「マジ」になっていかれます。 それが公開の実演の会場でもです。
仕事に対する誇りだと私は思います。

それは工芸的職人さんに限りません。
先日の中国料理の料理人さん然り。何事によらず仕事を大切にして取り組んでいる人はそうなんだろうと思います。
この方が今使っている小刀をご覧ください。
2本の小刀を合わせてピンセットの先のようにして、一度に1,2ミリの幅を切り抜くことができるのです。ご自身でこういう道具を作られるのです。
「いやこういうのは先輩などに教えてもらったりして使うようになった」のだというのですが、ご自身に合わせて少しずつ少しずつ改善して、やがてご自身のからだの延長にしていくのです。
「職人は道具だからね。」

友禅で、こうした職人が切った型を使う「染」はもうごく特殊な場合を除けば仕事はありません。
この方もこうして額装する作品を作ったり、小物を作ったりされています。
「まあ、時代と言えばそれまでだけど、寂しいわなあ。もう弟子を育てっる言ったって、いい仕事ができるまで修行させるような時間も仕事のチャンスもないさかい、間にあわんしなあ。」

今は見学の人の利便性のためにバックライトを当てていますが、通常はこういう台の上で切ることはないのだそうです。

最初に書いた人数は延べ人数ではありませんから、今年のように繰り返し撮らせていただくようなケースが増えてくると実人数の数は増えません。
ですが、だからこそ意識する点を変化させて撮る機会にもさせていただけるようになっています。
やはり物事は弁証的に発展するんですねぇ。
1000人の方を撮れたら「パリで個展」という酒席の大風呂敷的誇大妄想的目標はずっと先に延びますが、来年の個展(次々回)では1000人達成を祝いたいものです。
- 2015/07/21(火) 00:03:41|
- 伝統工芸
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手作り市の雰囲気を盛りあがようと・・・・。
音楽があり食べ物がありおしゃれな小物があり・・・・と、手作り市も単に素人の偶然のより集まりから変容してきています。
主催者の企画性が出てきていますね。

音楽をする人にとっても格好の舞台となります。
お客さんも冷たいものを食べながら、お昼をとりながらベンチでゆっくりと耳を傾けます。

耳慣れたポピュラーな曲やオリジナル曲や・・・、演奏する人によって構成も様々。
腕も様々。

私はどちらかというと喉から先で作りすぎる声で歌う歌は好きではなくて・・・・・。

演奏中は「写真を撮っていいですか?」ができませんから歌い終わったタイミングで了承を得ます。
「いいですよ。でも音は採ってませんよね?!すこしまちがいもありましたし・・・・。」
?!?!?!?! 「音が撮れる写真て傑作じゃないですか?! それがだめなんて?!」
ああ、そうか!そうですよね?!
今は動画とともに音も採れるカメラが増えているのですから、そういう心配もあるのですね。

私自身はカメラで動画や音を採るということに今のところ全く興味がありませんから、カメラを向けたら「音を採っているのかも。」という発想が思いつかなかったのです。
でも、これも時代ですね。
3Dで録画して再生する時代だってもうすぐそこですしね。その映像から立体ができるかもしれませんし。
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- 2015/07/20(月) 00:01:07|
- 音楽
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それにしても、こうして写真を撮らせていただいて、手元にこういう写真があることは幸せなことだと思う時がある。
次回紹介する作家さんの写真もそうだが、「これも何かの機縁だねえ、出会いだよ。」とその作家さんは言っていた。が、出会った上に私なりに好みの写真にしてその姿をとどめることができるのだからありがたいことだと思う。

花を撮る人、鳥を撮る人・・・・・それぞれ皆さん惚れ込んで撮っておられるのですが、やはり私にとっては、それは「人」のようです。
(「かわいい若い女性ばかりでしょ?!」と何度も何度も繰り返してつっこまれる素敵な人もおられるのですが。)

ですからグループ展にはやはり人の写真で臨もうと思っています。

この方のお名前を聞いていましたので、「〇さん、謝謝!!」と声をかけました。
本当は「〇先生、謝謝」でしょうが。

もしこの人の写真を出すとしたら、この人は中国の東北部から来て、たまたま私と出会って、ご自分の写真が京都文化博物館に展示されることになるわけです。
不思議と言えば不思議ですよね。
でも、もしそうなって、この人とご家族やこのお店のご主人たち(台湾の方)が文化博物館に足を運んでくれたら、なんてうれしいことでしょう。
この写真が第一候補です。
ご主人たちが、ちょっとからかって声をかけるのでようやく笑顔がこぼれます。

「〇厨师 !! 謝謝 !! 再見」
- 2015/07/19(日) 00:00:19|
- 働く人々
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「今度の写真展に向けて写真を撮らせてもらえませんか?」
そうお願いしたのはもう一か月ほど前になる。
快諾していただいた後、なぜか気持ちがうまく整わないでお店の前を通り過ぎていた。
よし今日は!と表と店に入ると、お店のご主人は「いいよいいよ、今餃子を包んでいるから、いまだよ!!」と厨房を指さして迎え入れてくれた。

私はお昼の注文をしてからお願いしようと思て知多のですが、その間も有らばこそでした。
奥にいるこの人と目が合って「你好!」と声をかけると照れくさそうなはにかんだ笑いが返ってくる。
「こんにちは」 彼の声が耳に届く。 日本語の語彙が徐々に増えているようだ。

実に生真面目で、その笑顔もいつも穏やかだ。
中国東北部の出身だというので、…ほんのしばらく瀋陽に行っていた経験があるだけなのに・・・・それだけで親しみを感じる。
中華鍋な重いから無骨と見える手指だが、餃子を包むには少し大きすぎるようにさえ見える。
しかし、指の先まで神経が行き届きその流れは滞りがない。

80~200ミリのレンズと、カメラ本体には28~70ミリの重いズームをつけて、それらをリュックに入れて走るのは走り出しにちょっと気合が必要だ。
でも今日は撮らせてもらおうと決めたら背負ってくるしかない。
チャンスは短時間だ。

カメラを向けていると…生真面目な彼は…よそ見さえしないし、他のスタッフと冗談の一言ともかわそうとしない。
一枚目に笑顔の写真があるのが不思議なくらいだ。
私が撮ることに対してとても生真面目に応じてくれている。
だから仕事の障りにならないように勝負は短時間に決めなくては・・・・と思う。

できればこの9月のグループ展に出せえる一枚を欲しいのだ。
実は、若い女性たちの写真にしようか、この人や作家さんたちにしようかと未だに迷いがある。
それぞれに、今見てもらいたい思いがあるからだ。
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- 2015/07/18(土) 00:00:19|
- 働く人々
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花には赤が使われています。
印象的ですね。
この新婦さんは少し小柄な方なんですが、そのかわいらしさにぴったりです。

「式」だから伝統の通りに、という考えもあるでしょうが、こういうようにドレスも花もその一人一人の個性や思いに寄り添ってデザインしていただけるなんてうれしいことですよね。
この写真が一番和服地を使ていることが分かりやすいですね。

ゴージャスな花です。

お二人の作家さんのご挨拶です。
こういう会に参加させていただくと作品を見ていただくということについて視野が広がります。
写真だって壁にかけておくだけが能じゃないのでしょうね。
既に時々、学窓に工夫を凝らしたり、映像で繰り返し流したり音楽と組み合わせていたりなどする写真展示を見ますが、もっともっと見てもらい方と言うものを考えてもいいのかもしれません。

そのためにも他分野の企画を見せていただくのは刺激的です。
このピアニストがつけている花もフラワーデザイナーさんの作品です。

気持ちも華やいで演奏できるんじゃないでしょうか。

さて今日の企画も最終盤です。

先ほどまでスマートでカッコイイ新郎役をされていた男性モデルさんは実はこちらが本業の方です。
「伊賀の忍者」です。 ちゃんと名刺にそう書いてありました。
「一日に三人もすてきな新婦さんをエスコートできてうれしいでしょ?!」とさかんに冷やかされていました。



素敵なドレスに花。そして楽しい企画。
私にはほとんど未体験の世界でしたが、こういう機会を得られたの写真のおかげです。

そしてこうした素敵な人たちに絵会えるのもまた・・・・。
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- 2015/07/17(金) 00:00:49|
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「(写真を撮らせてと)どんどん声をかけられるんですね。」と言われることがたまにあります。
実は、そう気楽ではないんです。こうして路上でパフォーマンスをしている人たちは「注目してほしい」という思いを持たれているわけですし、写真撮影を歓迎される方も少なくないのです、・・・・が。
私自身についていえば、声をかける前にはずいぶん逡巡し、しり込みし、「まあ、次にしよう。」という自分の声と戦うことになるわけです。

初対面の方にこういうお願いをするということもさることながら、いい年をしたおじさんがこういう人の周囲を回って、立ったり座ったり、遠ざかったり近づいたりして写真を撮っているという姿を想像するだけでも、相当猛烈気後れします。
「私は有名な写真家です。ですから作品づくりのためにこういう写真を撮るのは特別なことではないんです。」なんて道行く人を納得させる理由を示す看板を首から下げているわけではないですし、そういう事実もありませんから。

そういう時に自分の背中を押すのは「もうお前には時間がない。何事かをなそうという気があるのなら躊躇している暇はないんだ。お前には明日はない。」という言葉です。これは少々以上に大げさな言葉なんですが、こういうことでも言わなければ一歩前に出られないんですね。
しかも実際、あまり時間はないのですから。

ネットに飛び交ている実に気持ちの悪い言葉。人を悪しざまにののしり、傷付けることだけを意図したような言葉。
そういう人間観の横行。
そういう状況へのアンチのつもりなんですから頑張らなくちゃいけません。 これも自己流の念仏です。

人が人に対して抱く信頼のかけらをかき集めるのがこのブログの出発点をなしている趣旨ですから。

その「かけら」の素晴らしさを伝えるために良い写真にしなければならないと・・・・・。
そこがさらにまた難しい。

時々こういうことを書いてみないと自分の方向性が曖昧になってしまうので「備忘録」のようなものです。
公言して自分を縛ろうということですね。
それにしても相当なテクニックの持ち主のようです。
楽曲としても大いに魅力的ですが、演奏のパフォーマンスも人を惹きつける力十二分です。

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- 2015/07/16(木) 00:00:55|
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まだ新しい奏法だそうです。
しかし、とても魅力的な音ですし、重層的な音は音楽的に複雑な表現ができそうです。
弦やボディーをたたいたりはじいたり、無論、弾いたりして演奏します。

ピッキング・アコーステイックギター

オリジナル曲を演奏されていました。

脚を止めて聞き入る人や「以前にも聞かせてもらったのですが、どうしてもCDがほしくて来ました。」という人がいました。
ご覧いただいているように通常のギターの弾き方とは手・指の位置がだいぶん違います。

アンプによる音の増幅があるからこその奏法のようです。
技術的に可能性が出てくれば、それが元来補助的なものだったとしても、やがてはそれを前提として新たな表現j形式を生んでしまう人間の相違はすごいですね。
カメラも今やISOが桁違いに拡張されてきていますし、オートフォーカスの正確さや速さ、連射の速さなどなど一昔前では考えられなかった技術的可能性を開いています。そしてそれが大衆の手に渡っているのですから、フィルム時代にはなどとこだわっている人たちを尻目に見てはるか彼方の表現の可能性を切り開く人たちが出てくるんじゃないでしょうか。
すでにいくつかの写真展でそういうものに出会っていますが、私などは、そういえばそういうとり方をしていた時代もあったよねなんて言われるようになってしまいそうです。

ボディーをたたく奏法はこれまでもあるし弦をたたくそれもあったわけですが、それが主人公として舞台の前面に出てきているということなんでしょうね。
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- 2015/07/15(水) 00:00:12|
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私の一週間はギャラリー巡りを中心に過ぎていきます。
火曜日は「寺町コース」、水曜日は「東回り」、木曜日は「西回り」
これに手作り市巡りや美術館などでの展示見学が入ります。

この漬物屋さんの建物の3階ではほぼ毎週写真展がありますし、4階では絵画や切り絵、あるいは織物などの様々なジャンルの方の作品展もあります。時には4階でも写真展があります。
ここには大概、西廻りのコースの終わりの頃にたずねます。

どこのお店でもみられる光景だとは言っても、定員さんのその人その人で醸し出す雰囲気は違います。
毎週通うギャラリーにはここを通って奥のエレベーターで上がりますから、漬物の味は無論ですがスタッフの皆さんの様子も目に入ります。
ちょうど帰り際に店の外からの光がうまく入って「オッ!!」と足を止めました。

中学の修学旅行生、外国人観光客などなどお客さんは多様です。
こうした人たちの笑顔や声掛けが京都の印象を決めていくのだと思います。

京都ブランドにぶら下がっているだけとか品のない売り込みをしているというお店を見ないわけではないですが、「老舗」を意識するところではスタッフも気持ちの良いところが多いです。
漬物の種類もいいですし、季節ごとに店頭に並ぶものも変わってきます。知らなければいけないことがたくさんあるでしょうねぇ
保存期間の違いや製造工程などについても親切に説明しています。
私はこの人がお客さんに対して向けるまなざしが魅力的なのと、口の開き方とえくぼが魅力で撮らせてもらいました。

ここはカメラを持った写真愛好家がたくさん通るところだけに時々『撮らせてほしい』と言われることがあるそうです。

この日はたまたま50ミリしかつけていませんでしたので、お客さんの邪魔にならない距離から撮るのはなかなか難しかったのです。
でも逆にF1.4は助かりました。

こうした街の一人一人が今日とを作っているのだなあと思いました。
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- 2015/07/14(火) 00:05:28|
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最近お会いしたある作家さんがこんなことを言っておられました。
「世界のいろいろな国の様々な人たちが異なった文化をもっているのは知られたことだけれど、例えば人と人との間隔についてどういう感覚を持っているのかも違うんだ。」
例えば人は自分の周囲50センチメートル以内は極めて個人的な空間だから人の侵入を拒む感情が湧く。逆にその範囲に入れてもらえるということはとても親密な関係だと認めている、と。

これを本やネット上の記事で読んだとしても、その記事を一体どこの国の人が書いたかを確認しなければ日本人に当てはめて良いかどうか判断ができないということになる。
私は高校生の頃初めてフロイトの学説を紹介したものを読みましたが、これはキリスト教が自分の誕生以来の文化として刷り込まれた人たちにしか通用しないと思いました。
なぜ日本人の学者たちが、これをヒントに日本人についてあらためて虚心坦懐に研究しようとしないで、これをずいぶんありがたがって、そのまま何にもかににも当てはめようとするのかが疑問でした。

だから私は写真を撮りながらこの人からいろいろな気配を教えてもらいます。
人として尊敬しあうためには、お互いを知らねばなりません。そこには、共通点も相違点もあります。
『そんなのは人間としておかしい』 というのは、日本人の感覚、道徳感情・意識とは違っているということを意味するだけです。相手からも同じことが言えるということをまず認めねばなりません。

欧米や中国・韓国の若者は今や年々世界に出て学んでいますし、働いています。
若者が触れ合えば一生を誓うことになってもおかしくありません。無論、娘や息子が外国人と結婚するということを経験する人もまたそれに比例して多くなります。
そしてそのことの幸福と軋轢もまた多数経験して、人類総和として人々のつながりの多様性について経験的に習熟していきます。
これは世界史的必然です。
世界の結合、それが資本主義の歴史的使命なのですから、資本主義を元に戻さない以上、このことはいやおうなしに進んでいき、そこに人類の未来が垣間見えるのです。
いくら中国人や韓国人を悪しざまにののしってもこのことを押しとどめることは絶対にできません。

私はこの人のような若者に出会い、話す機会を得、写真まで撮らせてもらうことになると、大げさに言うと世界史の先端を見ているようでドキドキするのです。


先日もバスの中で十代の可愛らしい外国人の女の子たちと隣り合わせになりました。
私が小銭を手にして数えているのを目の端でとらえたのでしょう。 バス停が近づくとさっと立ち上がって通路をあけたのです。
中国の留学生に聞くと、交換留学に来てそういうエチケットを教えてもらったというのです。この時の子たちは二人が白人で一人がアジア系の子でした。

よその国に来て・・・その国の若者の十中八九ができていないエチケットですが・・・・この国では、と言われた「エチケットを実践できたことが「うれしかった。」と、その中国からの留学生は言います。
そういうふうに謙虚に学ぶ力のある国民こそ尊敬できるのだと思います。
- 2015/07/13(月) 00:02:30|
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この人が少し上目づかいで見つめると・・・・・。

人を撮るんだから風景は上手に撮れなくても…なんて言っていると・・・・・ダメですね。
こういう場合は、どの程度に絞るのか、そこが問題ですね。 もう少し・・・一段かな、二段かな・・・絞るべきだったように思います。
絞り、シャッター速度、フォーカス、無論、ISOもマニュアルです。何故「無論」かというとキヤノンの5Dに京セラコンタックス用のレンズをつけているからです。
「フルサイズ撮像素子」に背伸びをしただけ?という感じの5Dは、今となってはなおさら魅力のないカメラに思いますが、レンズを使いたい私にとっては仕方がないんですね。
ただ、現在の進んだ撮像素子と集光レンズでこれと同程度の画素数かせいぜい2400万画素くらいのカメラがあればなあと思います。ファインダーは最低でもD810位のものを。

動画もいらないし、GPSもいらないし。

こうして撮らせていただく機会があっても、年齢とともに次第にカメラの重さを感じるようになってきています。
少し長いレンズをつけると、持ち上げるときにズッシリと感じます。
でも、軽ければ撮りやすいとも言えないんですけど。

こうして撮りながら、国のことや日本ですの生活についていろいろ話を聞かせてもらいます。
実はこれもまた楽しいんですね。
私は言葉ができませんが、この人の日本語はとても素晴らしいので微妙なニュアンスも質問できます。

そして何より・・・・とても良く勉強していますし、教養が豊かですから・・・・日常会話以上の話ができることはさらにうれしいですね。

この人の和服姿の写真を見せてもらいましたが、私もぜひ撮ってみたいと思うような姿でした。
- 2015/07/12(日) 00:00:34|
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私は元来? 夏が好きで、ことに梅雨明けからの20日間ぐらいが一番好きなのです。
太平洋高気圧が安定的に居座って晴れが続き、白く輝いて高く伸びあがる積乱雲を眺めるのがことのほか好きなのです。
で、夏の気配がするだけでも俄然高揚してきて、何はともあれ撮りたくなるのです。

薄いブル-のワンピースに細くて白いベルト。
この人が選んで着て来てくれた服です。 いい感じですね。
私はどちらかというと、こうしたすっきりしたシンプルな服装が好きです。 そのこともあって撮影の時にはできるだけ無地の単純な組み合わせの服を着てくださいとお願いします。

植物園の中の林の径で撮りたかったのですが、学生さんですから「授業があって」そうはいきませんでした。
もう閉園の時刻です。 けれどこの並木では撮りたかったものですから、回り道をしてもらいました。
ここに着くなり「いいところですねぇ!」 そういう風に思ってもらえることから撮影は始まります。
日本の若い女性はどちらかというと明るくきれいな画面に自分がいることを喜ぶようですが、この人はこの写真のように陰のある空間と自分とのマッチングを喜びます。

かわいく幼いよりは大人として美しくありたい、それには知的なニュアンスのある画面がいいと考えるようです。
私もそのほうが好きです。
が、今日の主題はこうした緑のきれいな明るさです。

日本には「お人形さんのように可愛い」という表現がありますが、イギリスにもありますか、とまるで英語初心者の質問。
「(pretty) like a doll.」と言われたでしょ?!


そして近くの鴨川に・・・・。
- 2015/07/11(土) 00:00:55|
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あるところで80歳を少し超えた画家の方とお話をしました。
その方は30代の半ばに一念発起して船旅でヨーロッパに向かったのだそうです。半年ほど海外を回って来よう、と。
それがふとしたきっかけからそのまま30年もヨーロッパのある国に住みつき絵の勉強をし、また作家としての活動をされたのだそうです。
その方の絵を認める人がいて・・・・・、ということなのだそうですが・・・・それにしたって「半年ほど海外を回ってくるよ」と家を出て30年…だそうです。

この場で即興で曲を作っています。
なんという装置なのか知りませんが、いくつかのパートをそれぞれ順に弾いていって、それを記憶させ、再生しながらまた別のパートを重ねていく。
やがて何層にもなった音の流れの上にメローディーが重ねられていき、一つの楽曲となっていくのです。

その作業の全体をパフォーマンスとして見せ、聞かせていきます。
幾人もの人が興味深そうに足を止めます。 私もしばらく聞かせてもらって、いつものように「Can you speak Japanesen ?」と声をかけると、これまたいつものように「大丈夫です。話せますよ。」という返事。
「レッスン やってます。」 「即興 by ユホ」ですから、それも当然でしょうか。
海外から来ている人たちは日本人から「Can you speak Japanese? 」と話しかけられるのは本当はあまりうれしくないといいます。何だかバカにされているようだとも。 しかし、そうはいっても立場を変えると…自分が外国語を話せないために…一応確かめておこうという気持ちになってしまいます。

途切れなく演奏をしていますので、普段はどうしているのかだとか、どういうきっかけで日本に来たのかなどの話が聞けません。 案外、私が最近気に入っていて、たびたび出かけるアイリシュ・パブに行けばこの人にも会えるのかもしれません。そうしたらぜひ話を聞いてみたいと思います。

ここでは同じようにギターを弾いたり笛を吹いたりしている人たちをもう何度も撮っていますから何とかして新機軸で撮りたいのですが、なかなかアイディが浮かびません。
これじゃ折角撮らせてもらっているのに申し訳ないなあと思いながら、この人の周囲を回ります。

シャッター底度を遅くしてブレを生かす方法もあるのでしょうし、もっとずっとアップにしてもいいのでしょう。
通行する人を重ねても撮りたいのですが。

何よりこの人の演奏の表情をもっとつかみたいですね。
- 2015/07/10(金) 00:00:14|
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光沢をもった黒い花びらがゴージャスに見えます。
この方のドレスはおばあさまの残された和服を再利用してのものだそうです。
胸の脇あたりに織による模様が見えますね。
この方の希望を生かしてのデザインです。

ドレスと花がよくマッチしています。
作家さんとモデルさんとで記念撮影です。
実際の婚礼では花嫁以外は白を着ないというのがエチケットになっているようですが・・・・新婦入り目立たないようにするというのはまあエチケットとして尊重されていいと思いますが、旧慣はもっともっと見直してもいいんじゃないでしょうか・・・・・今日は新作発表会ですので、作家さんたちも白を着ています。会の最初に説明がありました。

写真手に比べて華がありますね、とちょっと羨ましい。

この方が最初に登場された「新婦さん」でしたが、役割を終えて高揚した気分と安心した気分とで輝いています。


この方が2番目。
会の流れの合間を見つけて「チョット伏し目がちになってくれますか?」とお願いして。
つい「人物を撮りたい」モードになります。
- 2015/07/09(木) 00:00:01|
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ですから新郎さんもモデルさん。
と言ってもモデルが本職ではなくて・・・・・・。
楽器を演奏する人を見ると、つい「撮らせてもらっていいですか?」
これは本当の結婚式に行っても出てくる悪い癖です。 演奏者やカメラマンや、ホテルのスタッフや・・・そういう人を撮りたくなるんです。
今日は新郎・新婦をとっていますが、それは新郎新婦ではないから…といえばおかしいですね。

二人目の「新婦」さんが入場です。

もちろん「新郎」がエスコートしてきます。
そしてそれを見つめるデザイナーさん。

一日に二人の、いえ実はこのあともう一人、計三人ものきれいな新婦さんに囲まれる幸せな新郎さんです。
新婦さんが手にしている花がその人のイメージに合わせて違っ立モノになっています。
私の時代はただ花屋に頼んだというようなものだったんじゃないでしょうか。


この日はなんといってもデザイナーさんの晴れ舞台です。


- 2015/07/08(水) 00:01:05|
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お邪魔虫だったかもしれない。
結婚式場での撮影は難しい。お祝いに駆けつけた人たちや親族の方たちの邪魔になってはいけないし、雰囲気を壊すことも絶対ダメ。そのうえ最近では演出がこっていて会場の明るさは猫の目のように変わり、場所によっても明るさが違う。・・・・・。
ブライダルカメラパースンたちは実に見事だと思う。

ストロボは会場の皆さんにとってはお邪魔だろうなあとは思ったが、結局使わざるを得なかった。 α7sだったらどうなんだろうかと思いながら、でも逆光だからなあなんて・・言い訳しながら。

会場の女性たちの視線は新婦さんに注がれます。
新婦さんご本人にはもとよりお召のドレスにです。
女性たちにとってウエディングドレスは特別のもののようです。
式の司会の方も美しい方ですねぇ・・・・・、なんて誤解を招く書き方はそろそろやめにしておかないとモデルをされている方にもデザイナーの方たちにも悪いですね。
この会場では、ドレス・デザイナーさんとフラワー・デザイナーさんがコラボレーションをして作品を発表しているのです。
ドレスを着ている方は今日の日のために依頼された「素人」のモデルさん。 そして斯く言うカメラマンも素人の私。
マイクをもって説明をされているのはフラワーデザイナーの牧村さんです。

「新婦」が肩に掛けていたレースをとって、花をつけかえている方がドレスのデザイナーの市田さん。

この会場では新作のウエディング・ドレスと華がモデルさんに合わせてデザインされたのだそうです。
それらを見せていただきながら、おいしいランチをいただいて、その上にピアノ演奏が楽しめるという企画です。

- 2015/07/07(火) 00:00:22|
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平面の布で立体の体を包むのですから、いわゆる立体裁断がされるのですが、布もこうしてアイロンをかけながらすこしずつアールをつけていくのです。
上質の羊毛地でないとなかなか良いカーブを作れないのだそうで・・・・・。

戦後間もなくは発電が不安定で電力の供給が途切れることが度々でした。ですからそのころは炭を入れる部分がついたアイロンでした。
私もうっすらと記憶があります。
今でこそ落雷や強風・豪雪で電線が切れたりしない限り停電になることはありません。
しかしほんの数十年前までは「また停電だよ。」という会話は珍しいことではありませんでした。
現在の日本の状況しか知らないからと言って、途上国の停電や断水の状態を笑う人は恥ずかしい人だと思います。
途上国も数十年後には日本の現在程度にはなるのですから。いやそれ以上になるでしょう。

子供のころ時に父に頼んで仕事台でアイロンがけをさせてもらいました。
饅頭を使ったりしてアイロンをかけるのですが、その経験のおかげでズボンのアイロンかけはうちの細君よりは上手だと思います。
当て布をして、霧をふいて・・・・。

問題はその腕を生かしているかということですが・・・・・。

こういうしつけ縫いの糸を抜き取る手伝いをしたことも思い出しました。
「目打ち」を使って糸をひっかけて引き抜くのです。

カメラを買ってもらった頃に父親が仕事をしている姿を撮りましたが、あの写真は今はどこにあるのか・・・・。

ご近所に良いお知り合いができました。
- 2015/07/06(月) 00:00:43|
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仕事をしている様子を見せていただくと、私の父親のしていたあれこれのことが鮮烈に思い出されます。

街を歩いていてウインドウを覗くとマネキンたちが華やかにスーツを着こなしていますが・・・・。
きれいに飾られたショーウインドウの中の彼らが来ている服はそれなりの値段がついています、・・・・が、こういう縫製と仕上げで、どうなんだろうと思うことが一再ならずあります。
むしろひどいなあと思うことが。
民放のアナウンサーなどの服も見てくれはよさそうなのに「吊るしだろうなあ。」と・・・。
それにしてもあの胸のしわや、袖の取り付け部の仕上がりのひどいこと・・・・・。

そうしてみていると保守系政治家たちの服の高級そうなこと。

〇ヤマや〇キでスーツ上下に「さらにもう一本替えズボンをつけます」で販売されている服は・・・・どうなんでしょう。
というようなことは、まあいいとして、こうした職人さんの仕立てた服が着られる人はそう多くはないのでしょうね。斯く言う私もそうなんですが。
よい仕立ての衣服を着ると気持ちもシャキッとしますよね。

そういえば、私は最近履くズボンが無くて仕方なく昔履いていたズボンを取り出して履いてみました。
すると履けたんですね、一段前のサイズのズボンが。そしてベルトも長さが微妙にあまるんです。
これは自転車で人探しに出かけている効能ですね。経済的に助かります。 しかもシルエットのバランスが幾分くなってきましたから、有難いことです。
指ぬきをした指で針を押し出します。

使っている針はとても細いものです。 この針孔に糸を通すのに眼鏡がいらないのだそうです。
奥さんによれば「カンで通しているんですよ。」とのことですが、私などとても目で見てはできません。

裁ちばさみで布を切ると「シャ~ク、シャ~ク」という音がします。 もう少し厚い音かな。
これも久しぶりに聞きます。

アイロンをかけると熱せられた布から独特なにおいが立ち上ります。
五感で懐かしさを感じます。
- 2015/07/05(日) 00:00:58|
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私はこの地に引っ越してきてまだ5年あまり。
引っ越してきて間もなくのころにご近所を散歩していて「おやっ?!」と注目した物があります。
それが誂え紳士服のお店です。
今や誂え紳士服の店など、まして工場に発注するのでなく、お店で縫製している店など滅多にみることはできません。 私の郷里の街ならいったい何軒が営業できているでしょうか。おそらく片手の指の数がほとんど余るのではないでしょうか。

既製服に押されて、かなり高額所得のある人でもスーツを誂える人はたくさんはいないと思います。
外国ブランドのスーツをデパートでは20数万円で販売しています。それだけ出せば服を誂えることができても、多くの人は職人の仕立ての技よりもブランドやみかけのデザインを採ります。

そういう流れがすっかり定着してしまっている今なお店を続けていられるのは、よほどの腕をお持ちか・・・・・。
しかも、この辺りは住宅街です。ふらっとお店に入る人はまずないでしょう。

この方は御年82歳だそうです。 現役です。

私の亡くなった父は洋服の仕立て職人でした。
その父は30年ほど前には洋服屋を廃業してしまいました。 事情はいろいろありましたが、要するに仕事がなくなったのです。
私の高校時代の学生服は父の仕立てでしたから、純毛の生地をウエストを絞った裁断で縫ったもので、裏地は黒の絹地でした。
父親の職業欄に「洋服仕立て業」と書くのが息子には・・・・父の意には反していましたし、それは経済的な困難を意味していましたが・・・・何となく誇りでした。

仕事に対する父の職人としての誠実さが私には誇りだったと思います。
そんなことがあるものですから、このお店の前を散歩で通るたびに、ずっとご主人とお話をしたくてなりませんでした。

既製服の裁断も随分と改善されてきて様々な癖のある人にも見かけ上フィットしているようになりました。
私などは幸い既製服でもサイズも合い、着てもおかしくは見えないのですが、 しかし、根本は体を服に合わせているわけです。

人体は、実は左右対称でさえなく、私の体のようにいろいろにねじれたり歪んだりしているのですから、その体に沿わせながら、かつすっきりとスマートに見えるように体を包み、そのうえ方もひじもスムースに動かせるなど機能的でもなければなりません。
- 2015/07/04(土) 00:00:54|
- 服飾
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山や林や池の風景を撮る人、海や港を撮る人、街の雑踏や祭りを撮る人、花や木々を撮る人などなど・。・・・写真のジャンルもいろいろあります。
それぞれ好みや意図があるのですから、学ぶことは多いはずです。
人を撮るといってもこれまた様々です。
この刀は、当然のことですが・・・・模擬刀です。
映画の撮影に使うものじゃないかと思いますが・・・・。真剣は重いですからね。
塗り鞘に入った刀も数振りありましたが、その意匠がかえって邪魔になるような気がしてこれを選びました。
が、やはり短刀がほしかったですね。 後になってみれば簪や、小柄でもよかったなあと。

こういうポーズは十代とか二十歳そこそこの人ではちょっと難しいでしょうか。
この人自身が求める絵というものがありますから、自然にポーズが出てきます。
髪へのしぐさにこだわるのは私です。

「赤い布を噛んでください」とお願いしますと・・・・・このようになりました。
私は「情念」というものについてあまり考えたことがありませんが、それもまた人の属性ですから、無視はできません。ある意味でとても深いものでしょうから、主題として考える価値はあると思います。
ただこのような絵になってあらわされるような情念がどのようなモノかは、人生経験が不足していてよくわかりませんが。

「色っぽい」とか「艶っぽい」とかいう言葉はもう死語なんでしょうか。
『色気がある』とも言いますね。
最近は「色『気』」ではなくて、むき出し過ぎるように思いますが、いかがでしょう。

- 2015/07/03(金) 00:02:34|
- 状景
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初めてお借りする場所なので、何をどの程度動かしてよいのか、お借りしてよいのか。
以前、スタジオ撮影を依頼されて、いろいろな経緯に加えて、経験がないこともあって、確かに撮れるという自信がなくてお断りしたことがある。

しかし、経験を積まなければ何事も始まらない。
来週の日曜日には、もっと明るくてこの情景とは真逆のような明るい室内での設定で撮ることになっている。が、その時も経験不足のクリップオンのストロボを使うことになるだろうと思う。
はたしてどうなることか。

それにしても刀剣があり、キセルがあり、手まりも燭台も拳銃も髑髏も・・・・・・。小道具がふんだんにそろっている。そればかりか
この建物の壁や建具を金箔や黒・朱で塗ったのもこの店の若いご主人だそうだ。
舞妓さんのだらりの帯だと思うが相当高価そうな帯も無造作に畳んでおかれている。聞くと未使用のだらりの帯でいつでも実際に舞妓さんが締めることができるものだそうだ。
街を歩く「舞妓の衣装の着付けサービス」でレンタルしているような帯とはちょっとレベルが違う。
後程、使わせていただく。

この人は狐の面なども作り、時に妖怪となってそこここに出没している。
「この部屋のそのあたりに『陰の気』が強い」などという。
私が「物音で振り返ったら、誰もいなかった。」というと、「そうでしょ。時々出てくるんですよ、この部屋。」とも。
「こちらを覗くんですよ。」

私には何も見えませんがね。
ガラス玉には何かが映るんでしょうか。

しかし、こうして撮っていると何やら小説でも書くような心持がして幾分興奮してきます。
谷崎や三島、あるいは上田秋成などを読んでみましょうか。
私としてはもう少し軽い浮世絵的な絵を目指そうかな。
う~ん、色味として「赤がほしいなあ。」とつぶやくと「持ってきていますが使いますか?」

・・・・・・・。
- 2015/07/02(木) 00:00:13|
- 状景
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