このところ暑いですが好天が続いてきました。 今日は・・・・。
もうすぐ梅雨ですね。梅雨があるからこそ列島の樹相や農業があるわけですから、それを鬱陶しいといったんじゃあ「ばち」が当たるかもしれませんねえ。

「頑張ります!!」
という言葉はすでに頑張ってる人が言うとグッとくるなあと思う時があります。
この人なども、時々もう少しゆっくりしたらと言葉に出してしまうほど頑張り屋さんです。
・・・・・・・ 「頑張ります」が言葉だけで実行されない私のような人がとても多いんですが。
最近お話した台湾からの留学生の「頑張ります。」も、心にグッときました。
大げさに言うと現代史の中心で「頑張ります」なのですから。

なにをどのように頑張るのか・・・・このところ頑張る内容と方向が随分的はずれな人たちが世の中を騒がせていますが、ただ頑張ればいいってものではなくて・・・・、私は極めて少ない体験からですが、アジアの若者に希望が持てると感じています。

日本の学生でも、読めば歯がこぼれるくらい難しい本を時々あげます。

同じ場所で時間をかけてたくさんのカットを撮るのはこの場ではエチケット違反ですから、次から次へと移動です。
すると光の条件が大きく変化します。
人間の目はなかなか優秀ですから、直にその違いに適応して、『見える』ので、写真を撮る自分がその変化を意識できなくてカメラの設定を間違ってしまいます。

それにしてもいい建物ですね。
それに管理が行き届いています。 大切にされている感じです。
あちこちに生け花がさしてありますが、とても気配りが利いています。
文化遺産に対する愛情が感じられます。

人の流れが途切れたチャンスを見計らって・・・・。
- 2015/05/31(日) 00:02:37|
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この人も少し写真に興味を持つようになってきていて「今回はカメラを持っておいで。」と注文すると、重いバックにさらに重いカメラをつめてきてくれました。
海外からの観光者も手に手に一眼レフカメラを持っていますから、「きれいな写真を撮るには、一眼」というイメージは強いようです。

私のつたない写真でもFBのプロフィールに使ってくれる人がいたり、撮ってもらった写真を見たら自分でも撮りたくなったなどと言ってもらえると嬉しいものです。

カメラは買ってみたものの勉強やサークル活動やバイトで「チョウ忙しい」毎日を送っている人ですから、なかなかカメラに触る機会もなく、・・・・。
この機会に少しだけ「入門」をご指導。
カメラの機構の名称や動作の名前などを日本語で話すと、それが日本語ゆえに伝わらないのか、その仕組み自体が分かりにくいのかという二重のもどかしさがあります。
が、そういうことが逆にとても楽しいと感じさせてくれる人です。

元来は理系のほうが得意?という人ですから、内容そのものが理解できないわけではなく、また理解がことのほか早いのです。
良い生徒です。
と言っても「先生」のほうの知識や技術が実におぼつかないのですが・・・・。

外国から来ていて、横浜をたびたび訪れているというのでもないのですが、京都から来た私を自分が案内しなければならないと意識している人です。
アイフォンのアプリを駆使して、こちらに曲がります、 多分向こうです、・・・・と手をひかんばかりです。
私はすっかりそれに甘えます。
- 2015/05/30(土) 00:01:35|
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私の古い友人が横浜の洋館で水彩画の個展をした。
私がこのブログを始めた一つのきっかけは彼であったこともあり、その個展を見に行った。
率直に言って彼の絵はうまい。 私もここ数年、街のギャラリーなどで毎週何十枚という絵を見せてもらっているが、水彩画で彼ほどの絵をそれほど多く見ることはない。 それは教室の先生と言われている方たちの絵も含めてだ。
しかしうれしいことに同級生のよしみで絵についても率直な感想を言わせてもらえている。そういう貴重な友人の個展だから、見に行くのも自然な思いなのだが、この時は、それに加えてこの人に会うのも楽しみだった。

以前その旧友に横浜を案内してもらったときに「港の見える丘公園」に近い洋館群を見ました。
とても気に入って、ぜひここで写真展をしたいと思うと同時に、ここで撮りたいと強く思ったのです。
あの人で撮りたい、この人で撮りたいという妄想を膨らめる中に、この人もいたのです。

もう少し歳を重ねた人のほうがいいかなと思う反面、この人のどこまでも素直な性格と、この建物のもつやさしい華麗さがマッチしたらどうなんだろうと・・・・。
この人には演出的なことはほとんど求めません。

建物に入るときには靴を脱ぎスリッパに履き替えなくてはなりません。
この人は私のためにスリッパを出し、脱いだ靴をくつ棚に入れようとします。カメラや鞄のベルトを肩に掛けたまま靴ひもを結ぼうと前かがみになれば、その肩に掛けたベルトが外れてずり落ちないように押さえようとする人です。
彼女からすれば私ははるかに年長者ですから「年長者を大切に」しなさいという親の教えにしたがってもいるのでしょう。
(この人は少々極端かもしれませんが、この人と同じように私の若い友人となってくれている人たちは、多かれ少なかれこうした行動をとります。)

この施設には貴重な家具も置かれています。それらには「手を触れないで」「腰を掛けたりしないで」と書かれたカードが一つ一つにおかれています。
そして中に、そういうカードが置かれていないものがあって腰を下ろせるのです。
しかも、うれしいことに三脚などを使わなければ他のお客さんに迷惑のかからない範囲で…撮影が許されているのです。
撮影をしたい人の良識を信じましょうというスタンスです。
私が横浜を好きになった一因がこういうところにもあります。 関西では・・・・・。

私はこの人(たち)とかかわって、若い知性が育っていく姿を喜びを持って見守る幸せをもらっています。
- 2015/05/29(金) 00:03:08|
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無言で集中されていました。
手際の速さに見とれ、息をつめたような集中した表情を、こちらもまた息をつめてみているという感じでした。
声をかけるチャンスもなかなかつかめません。

部分的に経糸を通して彩を加えていきます。
横にずっとつながるわけではないので何本かの経糸を何度か行きつ戻りつしてその場はおしまいです。ですから横糸は短く切られていきます。 その糸の端が布の裏側に芝生のように見えています。

いくつもの杼に様々な糸が準備されています。それを取り換えては通していきます。
そして通された糸はぎざぎざに形づけられた指の爪で手前にかき寄せられます。 つまり横糸が通される範囲はせいぜいその程度だということです。

もっと幅が広い時には櫛のようなものでかき寄せます。
あげられて経糸を杼の先を少しくぐらせて先をのぞかせると、杼は小指を使って押し出して「飛」ばされる感じです。くぐらせるといったゆっくりした感じではありません。「飛」びます。
ですから杼は高速艇のように見事な形状をしています。糸は杼の横腹にうがたれた穴をとおっています。
とにかく手間のかかる仕事です。

- 2015/05/28(木) 00:01:36|
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「雨の止むのを待って」
外は雨。

大丈夫だと思ったのになぁ。

あら?! あの傘は。

あんなに急いで転びはしないかしら。

もう、西の空は明るくなってきたわ。

というようなお話があったのではなくて・・・・。

でもこの人の写真を見ていると、なにか物語があるようで・・・。

もうすっかり雨は上がったようです。・・・・・なんて。
- 2015/05/27(水) 00:00:08|
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ご本人は「笑顔の写真はあまり好きではない」そうで、・・・・・・。
どうして?
う~ん、どうしてなのかよくわからないけど・・・。

背後に暗いスペースを多くとるのか、前面に明るさを多くするのか。
体の角度を少し変えるだけで、胸の白い部分の面積が変わります。すると画面も変わります。
これをその瞬間瞬間に目的意識的に判断することが求められるんですねぇ。
やはりは写真て難しいですね。

何枚か撮って後から選べばいい、とはいっても選ぶべきものを撮ってなければ選べないわけで。
そこが『絵』との違いでもありますね。

おそらく写真家たちは納得がいくまでそこで撮りなおすんでしょうね。
なにが違うか、どうしてみたいのかを自分に問い直しながら。
それができていない点も自分を写真家と言えない部分ですね。 素人なんだと思います。

それにしてもこの人を含めていろいろな人が私にチャンスをくれているのだから、その一度一度の機会を大切にしなくてはなあと・しきりに思う今日この頃です。

モノクロームの写真が好きなんだそうです。
笑顔の写真があまり好きではないという感性とつながらのでしょうか。 おそらく・・・・つながっているんだと・・。
何枚かの写真の中に、オードリーに似た写真を見つけます。

きれいにかわいく撮れているだけでは写真として納得できないんでしょうね。
それは写真の場合に限らず・・・・なんでしょう。

先日もある場所である人に「力を貸していただけませんか。」と声をかけました。
OKの返事をいただけるかどうか、もう少し時間が経たないと分かりませんが、きれい、かわいいだけでない方を見つけたつもりです。
良い返事をいただけるといいのですが。
人物写真はフォトマヌカンを選んだ時点で80%写真の出来が決まる・・・そういわれるのも故なしとしません。
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- 2015/05/26(火) 00:01:18|
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「あなたを撮ってみたい場所があるんですが。」 という私のお願いにこたえて、短い時間ですがお付き合いいただけるということで、出かけました。
今日は大学の講義を受けての帰りです。
日が長くなりましたから、こういうこともできます。 けれど少し曇りがちでこの後は雨模様です。
光が少々乏しそうです。

そういいながら第一の目的地に行く前にちょっとだけ寄り道です。
街を歩くときにはいつでも「ロケ・ハン」ですから、そんなある日見つけておいた場所です。
周囲は全くフォトジェニックじゃありません。
「切り取る」とはよく言ったものです。
この場所では何度か撮ったことがあります。
今までに撮らせてもらった人、それぞれに魅力的な写真になりましたが、この人ではどうでしょうか。

色のあるのとないのと・・・・どちらがいいでしょうか。

私の予定では、まだこの時間帯なら…というよりこの時間帯だからこそ・・・・西側の窓から斜光がタップりはいるはずだったのですが。
そのビルの狭間を抜けて差し込む光が面白い効果を発揮してくれるはずが、今日は夕方になるにつれて雲が厚くなり・・・。

ご覧になれるかどうかわかりませんが、とても長い睫です。
「付けてる?」なんて失礼なことを聞いてしまいました。 「いいえ。」

日本の多くの女性がこれを目指して日夜奮闘してるんですね。
ただ、これは英国人に多い傾向なのかどうかは聞き漏らしました。
この人に特有なことなのかもしれません。
- 2015/05/25(月) 00:00:16|
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「記憶の中の風景をソリッドな形にデフォルメし、生活の風景に落とし込むというコンセプトから導かれる色のリズム、調和を楽しんでいただける平面作品の展覧です。」
「ギャラリー知」のオーナーさんの紹介文です。
京都のある芸術系大学大学院に在学中です。

小さな木が群れたり離れたりしながら画面にたくさん描かれています。
その木が円を作ったりとはっきり分かる形に並べられているものもありますが、もし大きな公園の広場に人が散らばったりしたら、あるいはここが歩行者天国の交差点だったら・・・・・人々はこんな風に散らばるんじゃなかろうかという感じに配されています。

樹木ですから、実在のものは、根を生やして立ち並び、そこを動かないわけですが、カンバスに描かれた小さな木々は根が描かれていないためか、あるいは別の要因でか、おそらくは動いていくのではないかという空気を秘めています。

それだけに人間を表象したような木々たちの並び方は、そういう群れの中にある私たちを感じさせます。
形においては特に他と区別するような違いはなくて、わずかに幹の色が異なったり、繁った葉の裏にわずかな色がのぞきます。ですが空中から俯瞰すればそれらの違いは気づかれそうもありません。

個々には指導的な存在も、群れの動きを左右する存在もなさそうです。
群れを集団に形成する気配もありません。
彼女はそういうことの一つ一つを意識して描いているようです。

一見すればかわいい清潔な絵柄で、人を和ませる絵です。
部屋に飾れば穏やかで明るい雰囲気を作ってくれるでしょう。 でもどうやらそれだけの絵ではなさそうです。

話し相手になっている男性との会話が弾んでいますが、謙虚で何かを吸収しようとする彼女の人柄が見えます。
先ほどまで同じ大学の院の後輩が来ていましたが、このギャラリーではこうした若い作家たちとゆっくり話ができて私にとっても格好の栄養補給基地です。
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- 2015/05/24(日) 00:04:38|
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「危険 立ち入り禁止」 なんです。
が、今日は特別企画でここが通路になっているんです。
いつもは出入り、通行できない場所に入れるってことで、あえて遠くまで来たのです。

この人ならこういうことも楽しめそうだと思って。

実際、かなりテンションが上がりました。

私もこういうのは嫌いじゃないですから・・・・。

もう少し風景撮りの腕を磨かねばなりません。

もし高い階段とか梯子があれば・・・・きっと登っていくでしょうね。

こういう人と撮ると私の中の隠れていた部分が出てきます。
ありがたいですね。

最後は明るいところで。
- 2015/05/23(土) 00:01:20|
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ある写真展の会場で60人余りのポートレートを掲示し、それを鏡に映して120人余りに見えるように演出しているものがありました。
別の写真展では老若男女100人のポートレートを一組にして、3組掲示していました。 都合300人ですね。
やはりいるんですねぇ。 意識して人を撮っている人が。

脚は右に流すか、左に組むか。 難しい選択です・・・・?
四の五の考えているうちに脱いじゃいました。 靴を。
この人案外裸足が好きなようで、いろいろなところで靴を脱ぎます。

案外奔放な人かもしれません。

私は保守的ですから、ついついこういう写真になりますが。

おっと、これはただの「やらせ」です。 いえ、こういうのは演出というのです。

ここはご存じの青蓮院です。

ここは気に入ってもらえると思うよ。
案の定でした。

それで、こんなことも。

ちょっと休憩。
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- 2015/05/22(金) 00:00:46|
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アジアやアフリカでは人を撮ることはたやすいが、日本では困難だ。 ひょっとしたら欧米でより難しいかもしれない。
海外に行ったことのある多くの人がこのことに同意するでしょう。
しかし、そうだとして、ではこの日本の状況についてはどう評価すべきなんでしょうか。
そのことのプラス、マイナスをきちんと評価する必要が私はあると思っています。

そして写真家やジャーナリストたちはもっとこのことを広く議論すべきではないかと思うのです。
「これなら安全」とか「法律の許す範囲」とかいう、『問題を起こさない』で安全でいられるノウハウだけを意識しているように思えてならないのです。
その一方で、実に乱暴に人の写真を撮って(公開して)いる人が、実にたくさんいるのです。
このfc2ブログの人物ジャンルのランク上位ブログを見ても、それは明らかです。

私自身、議論することの虚しさみたいなものを感じてきていますから、議論するより「人の写真は撮れるんだ。」
人と人とはもっと信頼しあえるんだということを実践的に明らかにしたいというおもいでこのブログを続けています。

むろん一般に言われている「難しい」事態は現にあるわけです。
私は人の肖像権をはじめとする人格権はもっと丁寧に尊重されるべきだと思っていますので、写真を撮る人たちに(ことにつまらない低俗な週刊誌やテレビのカメラに対して、また下品な盗み撮りをもっぱらにしている人たちに対して)世の人々はもっともっと厳しく当たるべきだと思っています。もっと『難しい』状況になることが望ましいとさえ思っています。

しかし、そういう厳しくあるべきだという思想が単に気分と風潮としてしか広がっていないせいなのか、何もかもごちゃまぜにして「写真を撮るな」とか「写されたら大変だ」という気分として広がっているように思います。
街にあふれる監視カメラが私たちの日常の隅から隅まで観察しているのにそのことには少しも警戒しない人が、個人のスナップ写真に対して、すぐさま警察沙汰にするほど過敏に『怒り』ます。
そして、問題は、どうもそういう空気があることに対して、これは必要な制限で、お互いが相互に尊重しあうルールであって、しかし、その一方であれは許されてはいけない人権侵害だということを明確にしないで、とにかく触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近づかずとばかりにやり過ごそうとする傾向が強い。そうでなければ好き勝手に無視して匿名を利用してやりたい放題にする。
それが日本人の少なくない人たちの対処の仕方のように思えてなりません。

その反面、私は、もっと成熟した考え方の人たちがたくさんいると思っています。互いに人に対して敬意を持ち、例えば写真表現についても理解し共感してくれる人がいると思っています。
「人の写真を撮るのは難しんじゃないの」と言われる現実は広範に存在します。確かにそうです。そういう意味では私は非常に危険な地雷原を毎日歩いていることになります。
ことにこの1年くらい増えているのは「若い女性に声をかけて撮る」という写真ですが、それはとても危ない橋を渡っているといえるかもしれません。
けれど、こんな素敵な人たちが「じゃあ一緒に良い写真を作りましょう」と快諾してくれているのです。
これも現実の疑いようのない一面なのだといっていいと思います。
「人間にとって最も本質的な存在は人間である」 人を撮りましょう!!

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- 2015/05/21(木) 00:01:45|
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原田氏のブログから
「・・・・・色々な人が来てくれて 楽しかった
一人は 森山大道と 友達で 東京に行くと 飲みに行く という 質屋をしている人や
70カ国 旅している人(年上の友人)
京都でガッツリ 人物像を撮っている 写真家のおっちゃん
この人の 話は面白くて ブログを読むと
スナップではなく ちゃんと交渉して フォトマヌカンとして 撮っていた。(フォトマヌカンという言葉を私は知らなかった)
この人の話を聞いて 日本で人物を撮る事に 私は、ただビビって 撮っていなかっただけと 反省した。
日本でも人物を撮るぞ!」
と書かれていました。
この「写真家のおっちゃん」というのが私のことらしい。
( ちなみに、私は関西で年配の男性を「おっちゃん」と呼部ぶことがあります。これはあまり好きではありません。)
「フォト マヌカン」は、たぶん私の造語。辞書を引いても出てこないから原田氏がご存じなくても当然。
モデルという言い方があまりに手あかがついてしまっていて私の気持ちにぴったりしないのでフォトマヌカンを使っている。「マネキン」もそれ自体こういう場合に使うと好きな言葉ではないが。

彼のブログのコメント欄には「京都での人物写真は甲斐扶佐義氏と私の領分だから侵してくれるな」と・・冗談で・・書いておいた。
こういう力のある人が日本でも大いに人物写真を撮ってほしいものだ。
この方の少数民族の人々を撮った写真も相当な枚数に上るといいます。ポジフィルムで撮っていた時代も長いそうで、こういう人々の生活の様子を知ってもらいたいのでぜひ個展をしたいとおっしゃっていた。
これまたぜひ実現していただきたいものです。

世界70か国といえば、例えば「中学生が世界の国名を覚えておいで」という宿題があったとして、これほどたくさん覚える生徒は少ないでしょう。
それを単に名前を憶えているというのではなくて実際に踏破したというのですから・・・・なんともすごいものです。

こういう先輩がおられると私など実に青二才に思えてきます。
顔艶もまた体の動きの機敏さもとても私より年配とは思えませんでした。
不思議なことに話している途中から「そういえばなんだかあなたに以前お会いしているような気がするのだけれど・・・・。」とまじまじ顔を覗かれました。が、残念ながら私にはその記憶がなく。
記憶のない私が・・・・なのか、何だか会ったような気がすると記憶を保持しているらしいこの方が・・・なのか。
どう見てもこの方のほうが若々しい。

海外に行っても「なんでも、おいしく食べられますよ。」と食事で困ることがあまりないらしい。
ただお腹を下すことはどうも避けられないらしく・・・・、国によるんですがね。 タイは美味しかったですよ。
数年続けて中国・瀋陽で仕事をしたかったのに食事を受け付けられなくて断念した私としては羨ましい限りでした
かなりディープな世界にまで足を運び入り込んで写真を撮ってきています。
警戒も敵対もされずに撮ってくるのは相手に対する敬意や周到な安全情報の収集やと様々な要因があるんではないかと思いました。

世界を股にかけるお二人です。
- 2015/05/20(水) 00:00:29|
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世界で撮っておられる。
「写真家の原田正規です。
私は、29才でラーメン屋を始め餃子専門店 ピザ屋 不動産など多角経営をし
長年の夢であった セミリタイアを40才の誕生日前に実現させました。
40才で写真家宣言し
現在は 次の夢「50才までに写真集を出す」を掲げて
年2回の個展 年2回の海外撮影旅 コンテスト出品 電子書籍の出版など
依頼を受けての撮影は行わず 作品を作る事だけに専念し活動を続けています。」
写真家原田氏のHPの文章です。
なんときっぱりとしていることでしょう。 潔い覚悟です。
実際、作品自身が「写真家の作品」になっています。

この方は写真家原田氏の年上のご友人。
世界の70か国以上を回った経験の持ち主。
どうやら世界を歩く上での経験とノウハウを大いに原田氏に注ぎ込んでおられるようで、二人の間には高圧線が結ばれているように見える。

私が、「もう6,70%はお二人を撮るつもりになっているんですが。」とお話しすると、この帽子を取り出してかぶられた。
自分をどういうイメージに演出するかということを、写真展会場での写真の選択・配列、紅茶のサービスやDVD上映や、お土産の歯磨セットの用意などと並んで周到に意識されている。

写真家に、しかも多くの人の支持される遊泳な写真家に「なる!」という意識が実にくっきりとしている。
ただその意識に「良い作品を撮らなくて良い写真家はない」という気骨が通っている。
当たり前のように聞こえるが、実は案外そうではない。
私よりもう少し年配のこの方はアジアやアフリカの少数民族を訪ねて回ることが大好きで、もうすっかり熱中しているとのこと。
国に数にして70を超えるなら民族の数は、おそらく200とか300とかあるいはそれ以上かも知れない。
民族衣装の素晴らしさを話す時の氏の顔の輝きはちょっと表現することが難しい。

それを聞く原田氏の胸中の高鳴りも。

この方はもうすぐキューバに行かれるのだそうだが「キューバはいいですよ~。一度行ったら帰りたくなくなる。今度は音楽を聴くのがメインで・・・・。」と。
キューバの人々の貧しさもよくご存じで子供たちの鉛筆やノートを届ける活動もされている。
アメリカによる不当な封じ込め政策の結果だしスターリンソ連の愚策の結果でもあるが、キューバはよく耐えてきた。

この金盥の中にバングラデシュで撮ってきた4000枚の写真が積み重ねられている。プリントするだけでも時間も費用も大変だ。
ここにも氏の写真家としても覚悟が見える。
- 2015/05/19(火) 00:00:06|
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今年に入るころに、私の写真を撮る環境が少し変化してきているなあと感じていました。
おそらくは写真を撮らせていただく機会が次第に減って、例えば、ブログの更新を毎日続けるような状況ではなくなる日も近いのだろうなあと思っていました。
3月から4月に移る頃には、・・・毎日更新を目標にしているわけではないけれど、・・・そろそろ毎日の更新が途絶える時期かなという気配を感じつつ、途切れれば残念でもあるなあと・・・。
昨年までは毎月15~20人くらいの方に撮らせていただいてきたのですが、数えてみると今年に入って平均10人程度になりました。

これまでに850人ほどの方を撮ってきていますから、この調子だと1000人に達するのは来年の今頃ということになりますね。
けれど人数の面では、ちょっとペースダウンしていますが、この人のように時間をかけて撮らせていただくケースが増えていますし、同じ人に2度3度、撮らせていただくケースも増えています。
私は素人なんですから、もう一度相手をしてあげましょうと言っていただけるということには特別にうれしいい意味があります。

ドキュメンタリー風のポートレートという感じから少し変化していくのでしょうか。 何だか他人事のようです。
流れに任せるほかないようにも思っているのですが、 出会いは少し難しくなりそうです。

いずれにしてもとにかく「ワクワク」の気配のする方に進んでいくのですから、どちらに行っても私としては楽しいわけで・・・・。

この人はロンドンから来ているのですが、別の日にこれからロンドンに勉強に行くという人に出会ったり。

『人生交差点』というコミックの作品がありました。
人の人生が幾重にも交差し、
また出会いそうで出会わなかったり、
出会いたくても出会えなかったり。
大学卒業以来、ある同窓生が消息をつかめなくなって40年間、その間に時々出会う友人の間で「あいつはどうしているかなあ。」と話題にされてきて、ふとした折に所在が分かり連絡が取れたものの、未だに会っていない。
いったんは彼の住む町に行ってみようと日にちまで決める手はずになったのに実現しなかった。
「会う」とはどういうことなのかなあとふと思う。

笑顔がとても魅力的なんですが・・・・・。
- 2015/05/18(月) 00:01:38|
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目の色がブラウンですね。
日本人の中にもこれくらいの色の人はいますから、目を見ながら話していてもあまり違和感がありません。
ですが時々薄いブルーやグリーンの目の人に出会って話すと、何だかうまくこちらの目の焦点を合わせることができません。ちょっと奥まで覗き込んでしまうような気分になります。
いえ、街で「金閣寺にはどう行けばいいですか?」とか、「どこに行こうとしてるんですか?」と話すだけですが。
先日も、あるお店から出てきたところで若い白人男性と一緒に雨宿りをしたのですが、「カン ユー スピーク ジャパニーズ?」と声をかけると「ハイ大丈夫ですよ。」という返事です。
私が外国人に声をかけるときは大概こんなことです。
その若者に「京都で暮らす外国人の写真を撮りたいと思っているんだけど・・・。」「それ、面白いですね。いいですよ。今度会ったららぜひ撮ってください。」という返事をもらえました。
むろん今度はなかなか実現しませんが、彼も含めて本音はノーなんだけど社交辞令としてOKというような感じはありません。
この人もそうでした。

この入口の形が面白いですねぇと意見が一致して・・・。
ロケハンの時にもここで撮りたいと思っていたのですが、ロケハンではよくても・・・・実際に行ってみるとという場所が必ずあります。
時間帯が違うと町は変わりますからね。

私もたまにこういうポーズをとってもらうことがあります。
女性を何かに支えられるように(何かを頼るように)撮るということについて、ほんの少し、まずいかなあと思う気持ちがあります。
私が女性をどう見るかの問題として。
他の人の作品を見せてもらっても、何かに体を支えられているようなポーズを撮ってもらうことが目立つ人がいます。気になります。

自分の持っているジェンダーバイアスの点検というか反省ということもたまには意識しないといけないなあと思います。

少なくとも女性が見て不愉快だなあ、気持ちが悪いなあというような写真は撮らないように気を付けたいものです。
- 2015/05/17(日) 00:00:35|
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隠し撮りじゃありません。
この写真ではファインダーでのトリミングに、もっと注意を払わないといけないことを知りました。
別に撮った写真が、どうして落ち着きが悪いのか、この写真で知ることができました。
脚をどこで切るかということでした。
服と背景とぶどうの蔓と世界地図・・・。 黒と白との色合いもよかったと思います。
自己評価としてはまずまずです。

まだ待ち合わせた場所で出会って間もない時間です。今日の作戦会議の時です。
一応私の「つもり」を聞いていただきます。
初めて見つけて写真撮影をお願いした時のやり取りは、せいぜい1,2分のことでしたから、事実上今日が初対面です。

こういう人を撮る機会はこれまでなかったし、これからも機会がそれほどあるとは思えませんので…増やしたいとは願うのですが・・・・事前の場所選びを楽しみました。

ただ同じ場所でもフォトマヌカンによって撮りたいトーン、ニュアンスが変わってくるということがあって、それもまた楽しいことです。

既に京都のこともよくご存じですから、ちょっと意外で新鮮な場所を探します。
それだけで表情が輝きますから。

けれど話しぶりからすると、私などが出入りできないところに行った経験を何度も持たれているようで、どうやら生活体験が私とはずいぶん違うようです。
そしてとても気持ちの良い接し方をしてくれる人です。

私自身に対欧コンプレックスがあるせいもあるでしょうが、言動の節々にこの人から上質な稟質を感じてしまいます。

私の今年の課題の一つは海外から京都に来ている人たちの写真を撮るということがあるわけですが、こうして接すると私の知らなかったことをいろいろ教えてもらえます。
- 2015/05/16(土) 00:03:31|
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今日は幸いなことに好天です。
水のあるところに来ると気持ちがよくて「あの流れに入ってください。」と,、つい言ってしまいます。いつものことです。
カメラバックにはいつでもタオルが入っていますから、安心ですよとこちら都合の話。

ぜひともあの橋の上で・・・・といって小走りに行きました。
やはり気持ちがいいですよね。
私の背後で毎日この橋を通って出かけられるという紳士が、立ち止まって待っていてくれました。ありがとうございます。失礼しました。
「いや、邪魔するつもりはないんですよ。ただいつもの習慣なので、やはり通りたいんです。」とのことでした。

桜からつつじへ、フジも咲くし、アヤメも咲くし・・・・いい季節ですね。
季節の移ろいは足早です。

撮影を約束させてもらた日を楽しみに待っていると間の時間が何ということなく過ぎ去って、自分は何をしていたんだろうといささか困惑します。
このブログを継続しているのもそういう自分の毎日の希薄さに対する言い訳的な意味があるのかもしれません。
その反面こうして撮らせていただいている時間は本当に楽しいのです。

ここに来るまでにあまり人目につかずにひっそりとある、ある施設に案内しました。
「知らなくてはいけないのに知らないでいたことがたくさんあるんですね。」と。素直な方です。
でも、この場所のことはもっともっと多くの人が知るべきだと思います。

「知恩院には以前来たことがあるんですが、夜だったせいか、印象が違います・・・・・・。」
京都には「修学旅行…今はこういう言い方をしない学校が大半のようですね・・・」でも来たことがあるのだそうですが、そういう面では意外に地味な学校に通われたようです。
そうなんです。名前を聞くと海外旅行とかが普通のように思われているようなんですが、実は指導も厳しく質素な学校なんです。


- 2015/05/15(金) 00:00:33|
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KYOTO PHOTOGRAPHIE の会場を回っていると、やはりいろいろな刺激を受けます。
1時間くらいで回ってしまう私などと違って、会場のスタッフさんは、一日中その写真を身近にみているわけですから、受ける刺激は半端なものではないと思います。
チェルノブイリで働く人や生活している人たちの写真などもあり、精神的にかなりつらいだろうなあと思う会場もありました。
心の深いところにズンと来ます。

この人も写真に興味、大ありです。
その分、私の希望にこたえようとする気持ちも積極的ですし、後半はだいぶん提案もしてくれました。こういうのがいいですね。
自覚としてはあまり緊張されていないとのことです。なるほどここにはアプしていない写真の中ではいろいろ楽しいことをやっています。
が、体は正直といいますか・・・・。
まだ待ち合わせの時刻から30分ほどしか経過していませんからね。

まあ、私の風貌が・・・若いころに比べれば随分と変わったとはいいながら・・・・それほど打ち解けやすいタイプに属するとはいいがたいですから。
逆に、それだから「一見の若い女性に声をかけて撮らせてもらえる」ことになっているのかもしれません。
風体も、垢抜けしてカッコイイなどとは冗談にも言えないですから、それが逆に???

この人がしばらく置いて日本を離れるのだそうですので、ちょっと京都観光的な記念写真も兼ねています。
それにしても海外生活の経験があるせいか、自分の好みや態度に明確な意識をお持ちです。
むろん初めからそうだたというのではなくて紆余曲折を経てそういうものを獲得してきたという面もあるのだと思います。
渡欧までのわずかな期間も有効に使って自分の経験を増やそうとする意志的な行動というのは見習いたいところです。

この時には話題にしませんでしたが、この人が関東の人なので言葉がとても私の耳になじむのですね。
自分の言葉も…普段からも、中途半端でしかない関西弁しか話せませんのであまり関西弁風な言葉を使っていません・・・・自然にでる感じです。

ここは若狭街道の始点(終点)付近にある商店街です。
京都の庶民生活の中にある魚屋さんやお菓子屋さんなどがみられます・
かつては日本海側と平安の都を結ぶ大動脈だった道路です。
この付近には粟田口と言って近江の国と都を結ぶ幹線道路の「始点」がありますから、大げさに言えば1200年前には政治・経済の戦略拠点の一つですね。

「私は全く自由に動けばいいんですね。」と撮り方の基本を理解してくれたので、・・・・。
私の意図に嵌めていく写真も撮りたいんです。でも・・・・、初めての方との撮影でそう言うわけにはいきません。なかなかそういう経験を積むことができません。つまりは行き当たりばったりです。
脱自然主義が目標なんですが。
- 2015/05/14(木) 00:02:40|
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何事によらず人生において二度はないのですから、人との出会いもまた一度だけです。
いえ外見上は同じ人に二度ならず何度も出会うことはあるのですが、文字どおりたった一度の出会いということはまれではありません。
この人とはおそらく私の人生において二度と出会わないでしょう。二度会う蓋然性は限りなくゼロに近いと思います。
ただ、可能性がゼロかといえば、この人が将来学ぶことの分野から言えば、そして私が仮に海外で個展をするという野望をただの酒場の大風呂敷で終わらせないとすれば・・・・・たとえゼロに近いとはいえ何ほどかの可能性はあると思います。
ここが面白いところですね。

はじめてお目にかかったのは弘道館でした。
イレギュラーな派遣で弘道館に来ていたところを偶然お会いしていろいろ話すうちに…何しろ写真展の会場ですから・・・写真の話になり、ちょっと時間をいただくことになりました。
フォトマヌカンは初めてだそうです。

一度には理解できないような曲折を経て、この初秋には渡欧して勉強するのだそうです。
それまでの時間を有効に使おうと関東から京都に来てこの写真展のスタッフをされているわけです。
月ぎめのアパートに住んでいるのだそうです。
こういう積極的な行動は私にはとてもまねのできないものです。

そうした積極性の故でしょう、私のお願いにも応えていただけました。
聞けば関東に知らぬ人のない「お〇様学校」の出身だそうです。趣味の中に水泳などと一緒に乗馬が入っていました。
しかし、こういうことはいいにつけ悪いにつけ先入観で判断してはいけないのであって、今、眼前の人として魅力を見つけることに専念します。
第一、弘道館で出会ったときにそういう情報はないわけですから。

実際、撮影のために改めて出会ったときには、初めの一時間と終わりの一時間とではお互いにずいぶん違った波長でやり取りしていました。

この人の写真もたくさん見ていただきますが、ことに終盤は圧巻です。
だったら、そこだけ見せればいいじゃないかという声も聞こえてきそうですが。
人の出会いの面白さも見ていただこうと・・・・。

この人がこの初秋に渡欧すれば…というより今月半ばに郷里に帰れば…おそらく二度とはお会いできないのですが、それまで何の縁もなかったものが数時間にわたってカメラを仲立ちにしてお話ができるということだけでも、ある意味で驚きです。
それはこの人に限ったことではなくて、前回の台湾からの留学生についても同じことです。
京都観光も兼ねて撮っていますが、この人の京都での生活の記憶の中にほんのわずかでもこの撮影の時間が痕跡として残るでしょうか。
多分それが写真として残されるのですから、私の顔を忘れても、こうした事実だけは記憶に残ってくれるのでしょう。

この人はすでにたくさんの場所を見ているそうですので、観光のメインストリートのちょっとだけ脇道を通りたいと思います。
この建物は京都御苑にあり有名なんですが、金曜日と土曜日だけの公開ですから、案外見ていない方も多いと思います。拾翠亭といいます。元九條家の敷地に残された茶室だそうですが、瀟洒な建物と庭が、規模は小さいけれど楽しめます。

モデルをするんだということで、どんな風に撮るんだろうかといろいろ思いを巡らせていたようですが、私が特になんということもなしに撮るものだからちょっと拍子抜けのようですが・・・・。
やがて、「案外難しいんですねぇ。モデルを甘く見ていました。」のだそうです。
- 2015/05/13(水) 00:03:04|
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こういう写真はプライベート・フォトに近いものかもしれません。
フォトマヌカンを頼んでいながら、若い友人として話し、交流しながら撮っているので、何か絵にするようには意識が働いていないからです。
「記念写真だね。」なんて言葉も出てきます。

で、ちょっとそれらしいカットを。

白爪草がたくさん咲いていました。
昔まだ私が小中学生の頃に田んぼにはたくさんのレンゲソウが咲いていました。その数も密集度も格段に違い、私たちはその中で寝ころんでは立ち上がって相撲を取り、投げ飛ばされては大笑いをしながら、また蓮華の花と葉の中を転げまわったことでした。
「僕と同じことをして。」というと
「カメラも持ってですか?」
「ああ、そうだね。そういうことになるね。でもカメラは置いておこう。」

大学の講義の合間に時間をとってもらっての撮影です。
もっとも彼女はすでに台湾の大学を卒業してきていますから、この日は初めと終わりの一日に二コマでした。

今後の進路に向けての勉強ですが、彼女が台湾に戻る前にもっともっといろいろ教えてもらおうと思っています。
台湾に友人ができるなんて楽しいじゃないですか。
そのうちに台湾にも行かなくてはなりませんね。

その時に「あの時の写真を大切に持っていますよ。」なんて言ってもらえたら最高ですね。

そうしたら彼女を通じてたくさんの人たちとちょっと難しい話もできそうですし、おいしいものも食べられそうです。

そう考えるとこれからあと20年くらいは元気で写真を撮りたいですね。
はは、15年のつもりががいつの間にか20年に伸びてしまった。 欲が深くなります。
- 2015/05/12(火) 00:00:42|
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「你好 請多關照」
「発音 いいですね。ネイティブのようですよ。」と言われて気をよくして・・・・。
もっとも、中国語はこれ以外の単語を二つ三つ知っているだけのことですが。
以前、フランクフルトの空港の税関で係官の女性に「Guten Abend」といったために、ドイツ語で「以前ドイツに来たことがあるのか」などといろいろ聞かれてチンプンカンプンで答えに窮して、税関を通るのが遅れてしまいました。挙句に「なんだ独逸語を話せるんじゃないのか。じゃあ紛らわしいこと言わないでさっさと行け。」というような態度で追い払われました。
ツァーの同行者たちを待たせたうえに、心配させてしまうという冷や汗の経験を思い出しました。

そういえば大学の語学の授業の時に先生から「君の発音はイギリスの地方局のアナウンサーのようだ。」と褒められたのかくさされたのかわからないようなお言葉いただいたこともありました。 ずいぶん『訛って』いたのでしょうか。
それでも 褒め言葉だと思ってもっと外国語の勉強をしておけばよかった。 後悔先に立たず。

日本人の知人たちのほとんどには旧職を「告白」していません。何故かというと職業にはそれぞれ、世間に通っている印象があるからです。それがどうも嫌なんですね。そういうイメージから抜けたところで付き合いたいと思うのでニュートラルにしているわけです。
でも、この人も含めて留学生たちとの会話の時には旧職を隠しません。外国人との話の時にはと言っていいかもしれません。何かしら意識が違います。
この人たちからしても私は外国人なので話しやすい面もあるようです。

私は以前からスナックのママ、居酒屋のおかみさんなどに会うと「あなたの職業は・・・。」といってほぼパーフェクトにあてられてしまっていました。人相がそういうものになっていたんでしょう。それは別にいやではなかったんです。そうなってこそという面もありましたから。
いまは、リタイアしてこんなことをしているせいで人相もだいぶん変わってきているようです。当てられなくなってきました。ちょっと違うほうにずれていますね。これはまたこれでうれしいことだと思っています。

この人たちと初対面で話す時に、どんな風な印象をもたれているのか。
まあ、さしあたりそんなに悪人には見えていないようですが。・・・そういう人こそ危ないと忠告しておかねばなりません。

日本の学生との間ではなかなか話題になりにくいことも相当話せます。
問題意識が高くて、いったん問題意識を持つとよく勉強して調べるようです。

むろん日本の若者がすべて「未だ」しというわけではありません。
これまで2度ほど日本の近・現代史を一緒に勉強した若い保育士たちが、「これから数回に分けて、再度、近・現代史を話してほしい。」と依頼してきました。彼女らが一回り多くの仲間に声をかけて、今度は10名ほどになるんだそうです。
毎日の忙しく、疲れも大きな保育の仕事の後で学ぼう、考えようとしているのです。
できるだけの協力をしたいと準備中です。

青年は社会の形成層ですから、どこでもみずみずしい感性で学ぼう・考えよう、行動しようとしています。
大人たちがそれにふさわしく関われているかということが問われています。
「今どきの若い連中は。」「爺は引っ込んでろ!」・・・・・・これじゃいけませんね。両方とも分かってないんです。
これもまたどの国でも同じようです。
- 2015/05/11(月) 00:02:58|
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府立植物園です。
このケヤキ並木が気持ちがいいです。背後の車に気を付けながら・・・。

先日、 KYOTO GRAPHIE の会場を回っていて出会った人です。
こんなカメラを持っているのですからもちろん写真好き。
その日、道々話しながら歩いて、この人を撮りたいなあという気持ちと、もっと話していろいろ聞かせてもらいたいなあという気持ちとから、お願いしました。

海外で学び一人歩きをしていて知らない男に声をかけられれば不安を感じないわけはないのでしょうが、主体的に学ぶ意志を形成しつつある彼女としては、ある好奇心を抱いたのかもしれません。
私はまたよい青年に出会いました。

この後、勿論フォトマヌカンになってもらって撮影もしているのですが、いろいろ話しました。
うん、いろいろと。
私はたまたま数人の留学生を若い友人として持っていますが、彼らと同じように東アジアの良質な青年に出会ったという印象です。
私自身は経験も視野も狭いのですが、それを少しずつ拡張するのに彼らはとても親切に力を貸してくれます。

と同時に軍事力や経済力の観点でしかものを考えられない日本の政治家や企業経営者、マスコミに日本社会の未来を預けっぱなしの我々は半世紀先には東アジアの後進追従国になるのは確実かなという暗い予測が浮かびます。
たとえ軍事的・経済(量)的に多少のアドバンテージを持っていてもです。

むろんそれぞれの国の実態は複雑で一直線に成長していく国などありません。
課題はそれぞれ山積みです。ですが青年の目を見ていると、日本が優位だとは思えませんし、中高年の退廃ぶりもいくらかはましだ・・とも思えません。

「なんという?」 彼女が日本語の適切な表現に困った時の口癖です。
「なんといえばいいんでしょうか?」
私がたま~に見るユーチューブ上での若いイギリス人の英会話講師もまた「(日本語で)なんという?」とつぶやきます。

私が「外国語が全く分からないので、海外の人との交流ができない。せめて留学生と…。」なんて言うと
「まだこれからですよ。大いに(外国語を)学んでください。」と。 ごもっともですね。 そしてこういう指摘も少しも不快ではないんです。だって彼らは本当によく学んでいるのですから。
- 2015/05/10(日) 00:01:30|
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ビアジョッキや酒樽をこうした職人が作ると、それはそれは手にも唇にも心地よいものになる。
そして酒にも気のほのかな香りがうつり、これまた得も言われぬ楽しさを作り出します。

指物師と言っても箱を作る人もいれば、箪笥を作り人もいる・・・分野によって作り出していく発想が違うのだといいます。
今手にされているコップはまだ1㎝近くの厚みがありますが、これが上部で2~3ミリほど、そこではそれよりかなり厚くなります。

組み合わされる板材は全体が扇形になり、しかも内側にアールがついているのです。
外側の円周が内側より長いのは分かりきったことですが、だから外のアールと内側の面のアールが違います。
そして上部のアールと下部のアールとも異なります。
そのためにいくつも鉋を使い分けるんだそうです。

まさに職人は道具なりですね。
これらの多くは自作で、時には東寺などの古道具の市で見つけてくるんだそうです。
名の違ういくつもの道具を見せてくれました。
新しいからいいというものではないんですよね。

やはり鯨尺を使っているようです。

この鉋をはめ込んだ長い板状の道具は「正直」というんだそうです。
平らに削るからだそうです。何だか直球の命名ですね。

- 2015/05/09(土) 00:04:39|
- 工芸
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イタリアに旅行した時に 「ラファエロも目の前にいる女性を描けばあの理想的な美しさを備えた女性の絵を描けたのだ」と思わずにはいられませんでした。
独逸の空港にはまた大きく異なるタイプの素晴らしく美し女性がいました。
中国瀋陽のある地域では世界のトプモデルの様なスタイルの人たちにたくさん出会いました
国と地域が異なればそこにいる美しい人の姿も違うのですね。
この人と休憩をしようとしていると、あるお店のテーブルに「ジャパニーズ・ビューティーだね。」と言いたくなる若い女性がいました。
この人もうなづいていました。

これまでも写真のモデルを頼まれたことがあったでしょ?
いいえ、これが初めてです。
・・・と。

こんな素敵な人に出会ったらその国の言葉を話したいと思うんじゃないでしょうか。
その国の文化を知ってみたいと思うんじゃないでしょうか。
その地に行ってみたいと。
そして国境などというものはいったい何なんだろうと考えてみてもいいんじゃないかと。

私には最近とても気に入っているアイリッシュ・パブがあります。
ガストロ・パブというんだそうです。 パブではあるけれど庶民的な大衆酒場というよりは少しおしゃれなパブなんだそうです。
その店にある静岡の地ビールと「フィッシュ & チップス」が大好物なんです。

イギリス人だからと言って誰でもがいつでも「フィッシュ & チップス」を食べているってわけじゃないんですよ。
日本の人が思っているほどには食べていないと思います。
日本人がいつでも「スシ と テンプラ」を食べているわけじゃないのと同じことでしょうか。
日本について 「フジヤマ ゲイシャ」というイメージは修正されつつあるんだと思いますが、逆に私たちも他国についてステロタイプ化し、かつ古臭い、あるいはとてもゆがんだイメージを持っているかもしれません。
現在ではあえてそうしたゆがんだイメージを強化しようとするS経などのマスコミもありますしね。

入学試験や就職試験のためではなくて、学校でも世界との友好のために外国語を学ぶようになりたいものです。

- 2015/05/08(金) 00:00:13|
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私たちには意識するとしないとにかかわらず日本画的な感性が身についているのでしょう。
水墨画のように中国から学んだものでもそこに「枯淡」というような情緒を感じて楽しむような感性があります。
浮世絵に見られるような線描の妙に快さを感じるのもそうでしょう。
そしてあえて強く言えば自己主張のない絵を好む。世界観を明確に印象させるものにはたじろぐというか、いささか拒否的な感じを持つということもあるように感じられます。自然と一体という感じが好まれ、自然を明確に客体として対象化することを好まない傾向もあるようです。
ネット上で見る海外の写真にはそれと違った空気が濃密にあるように思います。
まして今回のような国際的なフェスティバルの出品作品においてはなおさらです。
単純にどちらがいいかということは言えないでしょうが、私は海外の作品からも大いに学びたいなあと思います。

・・・・などと大きなことを言っても、私の場合、撮らせてもらえるだけで大喜びというところが多分にありますから・・・。
この人が黒のワンピースの上に羽織っている服にご注目。
なんと「羽織」なんですね。 古着の市で見つけたんだそうです。 実にオシャレです。
背中にはむろん和風の絵柄があるのですが、何の違和感もありません。
黒の上に上手に黒を重ねるという品のいいおしゃれだなと思いました。

少しづつ観光のスナップのような写真から変化をつけていきたいと思います。

そもそも私のこの人物を撮る活動は、人と人とはもっと肯定的に敬意をもって交流できるはずだということを示したいという点にあります。
ですから一枚一枚の写真を『芸術』にするというのは2番目3番目の目標です。

人数は目標にしませんが、より多くの、人生において何かワクワク感を持っ生きている人に出会いたいということでもあります。そしてそういう素敵な人がたくさんいるということを示したいのですね。
そういう意味で私のようなものがこういう素敵な人と交流できるようになったという事実が私の表現の一面でもあるということです。

もし写真ということがなければこういうことは私の上には起こらなかったでしょうし。
この人は比較的に好きな写真として次のを選んでくれました。
なるほどなあと思いました。

この日カメラは2台体制でしたが、これらの写真はキヤノンのほうで撮ったものです。ボディーが重要なのではなくて、とにかく使いたいレンズがあったので無理して引っ張り出しているのですが、別の機会に別のカメラで撮ったものをアップしたいと思っています。

「カワイイ」文化と違う大人の文化を感じます。
- 2015/05/07(木) 00:00:12|
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常々自分の写真が『絵』になっていないなあと感じている私にとってはとても良い出会いでした。
ある写真展の会場でお見受けして、そこで咄嗟にお願いして、後日写真を撮らせていただくことができました。
今度京都で開かれた写真のフェスティバルで海外の写真家の作品を見せてもらうと、良し悪しの評価や好みはわかれるとしても、普段見せてもらっているものとは、やはり相当の違いを感じるのです。
その違いがどこから来るのかについての議論も大いにしてほしいのですが、とにかく違うのです。

私がこの人にフォトマヌカンをお願いしようという気持ちになった直観には、違う文化に触れたいという要素が確かにあったと思います。
そしてそれはただ遠くから眺めるのではなくて、あえて言えば直接に触れたいというような感じでした。

幸いこの人は日本語が実に巧みで、ほとんどネイティブですから、時々英単語を混ぜれば日常会話以上の会話ができます。
そして知的な素養がとても高いし、これまでの生活の質がとても上等なので…たぶんそんな感じです・・・・まだ、本当に若いのですが大人の会話ができます。

この人も写真を撮ることが好きだということでスマートフォンで何枚かを見せてもらいましたが、まさに『油彩画になっている』のです。
光と影、色彩についての意識が非常に高いと感じましたし、細部に美を見る力も相当なものだと感じました。

そして、20代の半ばにまでも達していないのに「レディー」だと感じました。

むろん若いかわいらしさはたっぷりあるし愛嬌も豊かなんですが、すでにエレガントさを滲ませるようになっています。
この人の生まれ育った国のすべての若い女性がそうだろうと想像することはできませんが、私にはとても好ましく感じられました。

この人に向かうためには私の準備が幾分以上に足りないようです。
でも、好意的に協力していただいていますから、何とかこの一枚を・・・・、と奮闘します。

初めの数枚がプラナーの85ミリ、後半がディスタゴンの35ミリです。
やはりレンズがカギですね。
- 2015/05/06(水) 00:00:20|
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「未来のマンガ家8人展『発芽』」
ギャラリー 高瀬川四季AIRで開催されていました。
大学の4回生の集まりです。
初日に行くとまだ2階の展示は完成していなくて、2階からあわただし動きが伝わってきます。
この辺が学生ですねぇ。
1階には一人作画実演をしていました。

彼らは現役の大学生ですが、すでに出版社に作品を持ち込んでいるようです。
早いデビューの人は現役時代から本のページを飾る人がいる世界ですから当然といえば当然なんでしょう。

が、そこに大きな落とし穴があるようにいつも感じています。
私たちの世代では永嶋慎二という漫画家を知る人は少なくないと思います。
あるいはバロン吉本という作家が好きだったという人もいるでしょう。
彼らの作品にも美男美女が登場します。が、脇役の人物の多彩なこと。現実の人間観察がとても豊かに、ヒューマンにされていることを感じました。
人物を観察すると言うことは単に人を見てスケッチを繰り返すということではありません。
人の置かれた社会の様子を観察するということが背景になければその人に対する共感性や怒り、憎しみは出てきません。それが形象されなければ足らないと思います。

そういうことをするだけの時間を許されないで早世を要求される世界のように思います。

日常的心理はとても良く描かれていると思います。コミックスとしての絵の水準は高いんだと思います。
しかし、問題は世界観です。
ここで出会った青年たちはとても、話しぶりも朗らかで礼儀も正しいし好青年たちです。
絵にもエロやグロ、あるいは破壊・暴力の賛美と言った作品は見られません。
線も落ち着きがあります。 そういう意味ではとても好感を持ちました。

あまりに競争の激しい買い手市場です。
しかし、ここに多くの人が踏み分けてきた道があって、一つの表現ジャンルとして相当に力のある世界を作ってきています。
コミックを原作としてTVドラマが作られたりするということは、良かれ悪しかれ、その力の一面を示していると思います。
私たちはいわゆる漫画世代ですから、漫画≒くだらないとは思いませんが、私自身は漫画界が危ない線を渡っているなあとは感じます。
戦争や国家についての思考が貧弱で直感的に過ぎるように感じています。
と言っても私には発言の資格はなくて、とうの昔に漫画家から離れてしまっています。

新し世代が新しい世代の自分の問題としてこの漫画という表現ジャンルを担い発展させていくことでしょう。
それでよいと思っています。またそうしかできないとも。 彼らに期待するしかないのです。
そして、その期待ができそうな空気を彼らから感じました。
この後、撮影の約束がありましたから、ゆっくりと話せなかったのが残念でした。
- 2015/05/05(火) 00:00:20|
- 絵画
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周囲では明日に備えてステージの準備も進んでいます。
トラックを改造したステージです。照明や音響を確認しています。
ポールダンスもあるそうです。なんだか不思議な組み合わせです。

この人が「表現者」と自己紹介しているのが分かる気がします。
演奏のしぐさが曲に聞くものを引き込む力を持っていそうです。 そこは意識されているのかどうかお尋ねすることはできませんでしたが、撮っていながらも曲をとても感じました。それは視覚的な要素も強く働いていたからではないかと感じました。

もうこれぐらいでいいですか、と演奏するのを止めるのではなくて私はシャッターを切るのをやめるまで続けてくれました。


演奏会で撮ることは…こうした野外でなら別でしょうが・・・本番のステージ上では難しいと思います。
シャッター音も邪魔ですし、そもそもカメラマンの存在が聴衆にとって邪魔でしょう。
私が聴衆の立場なら「絶対にやめてくれ!」と思います。
ですからレッスンの時にでも撮れたらなあと常々思うのです。

- 2015/05/04(月) 00:00:20|
- 音楽
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明日の夜に企画があるんだそうです。
それに出演されるのでリハーサル。
楽器にも慣れておかねばなりませんし。 ちょっと鳴らしている・・というのではなくて、当然?本格的に演奏しています。
ショパン・ピアノ・ソナタ第2番 「葬送」 第3楽章 ですね、 ね?!
こういう野外での選曲が、これ?!
どんなコンセプトの企画なんでしょうね。

実はこの日、私が今年からくわえていただいた写真の同好会(ファインダー・クラブ)のお世話で、京都市内で行われているパラソフィアという国際芸術祭のような催しの中心的な会場である京都市美術館に来ているのです。
入場券をいただいて「皆さんそれぞれ鑑賞のペースが違うので、ここで解散ということにします。」という幹事さんの、さすがに教養人の集まり、というご配慮です。

それで目に留まったこの人のリハーサルの様子を撮らせていただきました。
美術館の建物を背景にした演奏の様子などめったに撮れるものではないので面白いかな、と。
かなり曲に入り込んで演奏されておられましたので、なかなか声をかけることができず、逆にしばらく聞かせていただきました。

やがてほっと息をついて休憩の様でしたので声をかけさせていただきました。
その際自分の撮った写真を見てもらうというルールに基づいて・・・・・「エッ ‼? 〇〇さんじゃないですか?! 私知ってますよ。と、言うか仲の良い友人です。」とある一枚の写真に目を停めて驚いておられました。
私もびっくり。その写真の人物は私の個展のDMに二度も使わせてもらった七宝制作の若い女性職人だったからです。

理屈から言えばいずれこういうこともあるだろうとはうすうすと漠然と思ってはいましたが、実際にこういうことが起こると驚きます。
そのこともあって名刺交換そして撮らせていただくことに。

この人の名刺がまた実に積極的なもので「表現者 (ピアノ、演技、踊り、作曲、ピアノ講師、歌唱指導、ボイストレーニング、ケータリング)」などと書かれていました。
芸大で勉強されたのだそうで、「ピアノ演奏が中心なんですけど・・・。」
背景に平安神宮の鳥居。
目と指と手首と姿勢と・・・・それを瞬間に判断しなければならないのでしょうが、二つぐらいの祖嘘を意識しるので私の精一杯です。あとは直感的印象で・・・。

いちいちは分析的に意識するのではないけれど、それらをひっくるめて直感で「いい!!」と思う力を着かないといけないのでしょうね。
そのためには逆に一つ一つを意識して撮ることが大切・・・と。
そこが芸術的認識の弁証法・・・・かな。
- 2015/05/03(日) 00:00:11|
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人の表情には実に豊かな多様性があります。
それが見分けにくいほど微妙なわずかな変化であっても、くっきりと分かりやすい変化であっても、です。
またよく言われるように顔の右半分と、左半分では同じではありません。
左右対称だという人が美人だとか美男子だとか言われることがあります。確かにそうだなあと思うこともまたあります。図形的には、そうなんでしょう。
ただ、それが違っていることで複雑な性格、表情を見せていて魅力的な人もまた少なくありません。

女性が前髪を分けて、顔の片側を広く見せ、他方をやや隠し気味にするのは、そういう微妙な空気を漂わせる効果を狙っているんでしょうか。

もしこの人が今とは反対側で前髪を分けたら雰囲気はどう変わるのでしょう。
こうして右から見るのと左側を中心にみるのとだけでも雰囲気が違います。
お付き合いのある友人たちは普段からこの両方を見ているわけですが、この人の印象はどちらがより決定的な影響をを与えているんでしょう。

人を撮らせていただくときに時間が許せばできるだけぐるっと観察させていただきます。
その結果取れた写真では「いつものあなたじゃないみたい。」と周囲の人に言われましたと教えてくれる人がいます。
むろんカメラの前で緊張したり澄ましたりしているせいもあるんでしょうが、それだけではない気がします。

そして時にはご本人自身が意外に思われる表情、印象があったりします。
そこには私=撮影者が見たからという原因もあります。そこに撮影者の価値も見いだせます。

私がいつも同じような写真を並べるのは、一面ではそれらから見るその人の微妙な違いを見つけるからです。
- 2015/05/02(土) 00:01:01|
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