実は「お久しぶり!」の方でした。
私はそれと気づかずに近づいたのですが。

「確か、蒼樹さんでしたよね。」と彼が覚えていてくれました。
「え?! あっ!あなたは・・・・。」
そう、以前この鴨川で馬頭琴の練習していた方でした。 馬頭琴からバイオリンへ

しかも、そのバイオリンがただのバイオリンではなくて、「五弦」のバイオリンでした。

「日本では手に入れにくくて、だから弾いている人もほとんど見られなくて。」
五弦目はもっとも低音のふとい弦でした。
「ビオラの音域にかぶるんですよ。」

その弦をひくと気のせいか倍音が多いような不思議な音でした。
「この音が馬頭琴の音色に似ていて、惹かれたんです。」とのこと。
やっている人がいないし教えてくれる人もいないので「自己流で勉強です。」
確か馬頭琴の時もそうおっしゃっていました。
実行力のある主体性を持った方なんだなあと思いました。
やりたいと思った時には自分で道を切り拓く。

そういえば私の写真撮影も「自己流!!」・・・、では、ありますが。
ただ私の場合は、人見知りで、人からあれこれ評価されて「指導」されるのが嫌いなだけの独りよがりな「アカンタレ」なだけですが。
ベンチの上に荷物が置いてありますが、・・。
何やらガラス製品が見えませんか。 そうです、・・・ですね。

この秋晴れの気持ちの良いロケーションで一杯やりながらのバイオリンのレッスン。
サイコウ!ですね、

そのサイコウ! の気分を写したいのですが、
- 2014/09/30(火) 00:00:41|
- 音楽
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この建物はずいぶん贅沢なしつらえになっていて、樂氏の作品も他では見られない余裕の空間の中に陳列されています。
私自身の印象としては少し照明を落とし過ぎ・・・いささか大層な陳列という感じです。
が、作品自体は迫力もニュアンスも豊富なものです。

熱心に見入っていました。
時間の関係でパスしようかなと思っていたエリアも躊躇なく入って行って一点一点凝視していました。
無論その様子はとれません。作品のある場所で撮影はできませんから。

この舞台のような場所で独り芝居をしてもらって撮りたいところです。

こういう光の設計は楽しいでしょうねぇ。

さあようやく明るい場所に戻りました。

- 2014/09/29(月) 00:02:25|
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私は太平洋に近い場所で・・・と言っても自転車で40、50分はかかるんでしょうか・・・生まれ、育ちました。
遠州灘です。 海岸は砂浜で、波は大きく力強いです。 海岸線は大きくゆ~ったりと湾曲しています。 海というのは世界中そんなものだと思っていました。
水平線まで海以外に何もりません。 そして雲です。

京都は周囲を、あまり高くはないとは言え、山が囲みます。そしてどこからどこまでも人間の手がはいっています。
自然の山を借景になどと言っても、人間の意思・意図・思惑がうごめいています。
だから時々それを逃れて海に行きたいのですが、京都市内から海は遠いのです。
そこで時々琵琶湖の広さを吸いに来ます。

水の向こうに山があるというのは少々抵抗がありました。が、それでも幾分かは癒されますからね。
近江の国は山城の国をさらにさかのぼる歴史を抱いていますから、それも深い何かを感じさせるのかもしれません。
そんな水と歴史を意識して建てられたのがこの佐川美術館の建物ではないかと思います。

この人は虹彩の色が幾分薄いせいか、屋外ではまぶしそうで目を細めます。

この水をうまく配した渡り廊下?も心地よい設計だと思います。

先日あるギャラリー・喫茶で写真のグループ展があり見せていただいたのですが、そのうちのお一人がこのポイントからも撮っておられました。
人物がいるのといないのとではずいぶん雰囲気が違うなあと思って見せていただきました。
画面左手上の天井に水面を反射した光画模様を描いていますが、こういうところに表現の中心が行きますね。
ここも作品になっていました。
- 2014/09/28(日) 00:00:49|
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撮影をさせていただけることになると、どこでどんな風に撮ろうかといろいろ考えをめぐらせます。
その人の雰囲気や個性・趣味などと背景・情景を組み合わせて、ああでもない、こうでもないと考えるのも楽しみです。

私が市内を自転車ではしっていても大概、目はロケハンの目です。

といっても、ここは京都市内ではありません。滋賀県琵琶湖の東岸にある佐川美術館です。自転車でロケハンをしたわけではありません。
日本画の平山郁夫、 彫刻(ブロンズ像)の佐藤忠良、陶器の.樂吉左衞門の作品が見られます。
私はここが好きでこれまで何度も訪ねています。
考え抜かれた建物は見ても利用しても気持ちがいいモノです。
上の写真からお分かりのようにこの場所はバス停です。

どこをとっても絵になりそうで、楽しい場所です。
そしてフォトマヌカンをひきうけてくれた人が、その場所を楽しんでくれれば、写真も楽しいものになります。
美術館に行って絵や彫刻を見ることを一緒に楽しんでもらえるということが、今回の条件になりますね。

前回撮らせてもらった時には、前髪は降りていませんでした。今回は前髪ありです。
彼女自身がいろいろ工夫してくれています。帽子も二つ持ってきてくれました。

下がって撮ろう、下がって撮ろうとするのですが、つい引き寄せられてしまいます。

- 2014/09/27(土) 00:03:54|
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古い友人はよいものでいつも忌憚なく話をしてくれる。
今日も今日とて、その旧友とこういうことをしているのです。
お皿を見ていただければお分かりのように、十分食べて飲んで気持ちよくなっているところなんですが、・・・・。

私たちの席の隣にはこんな方々が、・・・。

で、私が「彼らは絵になるなあ。どうもさっきから撮りたい虫がうずいてたまらない。」とつぶやくと、
旧友は即座に「じゃあ、撮ればいいじゃないか。」とのたまう。
私はほとんどどなたともいろいろお話したうえで、さらに写真撮影の趣旨を説明して、カードを渡して・・・と段取りが長い。

そこでいつも逡巡するのですが。
だって何か相談しているようだし、割って入るのは迷惑だろうし、・・・・。
と、その刹那、旧友は店の若いスタッフをつかまえて「この男が彼らを撮りたいと言っているんだけど、どうかな?」と話しかけている。
えっ?! だって、そりゃまずいだろ!・・、なんてつぶやく暇も有らばこそ・・・。
「大丈夫だと思いますよ。常連さんですし、話してみましょう。 ハ~イ・・・・・。 OKですよ。」

旧友は、「やりたいと思ったことはやらなくちゃ。その場で迷って結局止めちゃうんじゃ、どうせ大した者にはならない。声かけてだめならそれで仕方ないけど、声をかけなくちゃダメかどうかも分からんだろ。」というのです。
「舞妓だって、芸子だって同じこと。彼女らだって同じ人間なんだからお前がしようとすることが意味があると思えばOKするさ。それぐらいわきまえるよ。」と言うのです。

お茶や兼スナックに行って、向こうを芸子さんが行き来するのを見て、そういうのです。
「そら舞妓かて人間どすさかい、勝手に撮られたら正直いい気はしまへん。」 当然です。
「そやけど、ほんまに一生懸命よい写真を撮ろうとしはるお人は分かりますえ。」
まあ、だからと言って「撮らせてください。」「どうぞ。」という世界ではないけれど。
とにかく、自分で独り相撲を取らないで率直に気持ちを伝えろと、彼はいいたいらしい。
そう、そこに私の大きな弱点があるのです。 で、このごろ少しずつ自己変革を迫っているのですが。


「あなたはカメラマン?」
「ええ、ノンプロの・・・。人物写真を撮るのを楽しんでいるので。 この写真をブログにアップしてもいい? うまく撮れていれば個展にも使いたいけど。」

個展をするの? じゃあ見に行くよ。案内はないの。
こうして私の道はパリにつながる~~・・・なんて、千鳥足で帰りましたとさ。
- 2014/09/26(金) 00:00:53|
- 人物
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ときどき伺うので、お邪魔に思われているかもしれません。
今度の個展では、この方の別の写真を入れようと思っています。
そのことでご挨拶に伺って、「すみません今日もいいですか。」とこれまたずうずうしく撮らせていただきました。
この場所では他の職人さんの写真も撮らせていただいていますが、静かな上に、この方たちが好意的ですので、呼吸を感じながら撮ることができます。
前回の不十分さを意識しながら、光と影を探して撮ります。
うれしいことにモノ作り人と通じる気持ちがあるからか、私が床に座りこもうと寝ころぼうと少しも意に介さずに制作に集中してくれます。

内心は五月蠅いなあと感じられているかもしれませんが、しかし、ここでお会いする方たちは、周囲でうろうろする私を度外視して、微細な工作に専念されます。
それは見事な集中力です。
ですから、私もそうして撮らせていただけることに対する感謝も込めて、集中して撮ることにしています。
この方を撮っていて「こういう写真が好きなんだなあ。」と自分で感じます。
撮っていて飽きません。
どこをどのように撮ればいいのか、食い入っていくと自分がどんどん高揚していくのが分かります。
撮影の機会を与えていただいていることに本当に、感謝ですね。
この像は地蔵尊です、半跏の姿勢を撮っている珍しいものです。
鎌倉期のモノを手本にしているのだそうですが、鎌倉期というより平安後期のような柔和なふっくら感を持った仏さんです。
首をほんの僅かに傾けています。
質実剛健の風のある鎌倉期とは思えません。やはり教科書風に決めつけてはいけませんね。

ご自身の創作については、「まだまだなかなかですよ。」と謙遜されますが、仏像彫刻の道は奥が深そうです。
ことにお顔を彫るのは、ことのほか難しいんじゃないでしょうか。
そして全身や手指の表情も。

このやり方は自分にしかできないとことだからと、ずいぶん早くから得意げな若手を見ることがあります。
自分にしかできないことを持っているのは優れたことには違いないのでしょうが、だからと言って、それを駆使した作品がよいかどうかは別です。

それを駆使して優れているという傲慢さが紛々としている作品を見る時ほど嫌味なモノはありません。
- 2014/09/25(木) 00:00:40|
- 伝統工芸
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私がこのあたりを通るときによくお邪魔するのがこのお店。
先斗町の湯葉のお店をひいきにしている?!なんていったら誤解を招きます。
「そんな上品なものを食するがらでもあるまい。」と旧友たちの声が聞こえてきそうです。

ずっと以前から私のブログをご覧いただいている方は、あるいはご記憶かもしれません。
私は元来、他県からの移住者で、長期滞在型出稼ぎ労働者ですから、京都のことはあまりよく知りません。
それでたまたまお店を見つけて好奇心で入り込んださい親切にお話しいただいたことからご縁ができた方です。

ずうずうしい私は、突然立ち寄っては湯葉作りを見学させてもらい、時には「味見」のお試しをいただくのです。

私の幼いころは湯葉を食べるような習慣はありませんでしたし、同郷で同じような階層の妻もまたほとんど湯葉を食べませんから、湯葉のおいしさを知りません。
そこで時々ここで教育を受けているのです(笑い)

などと言いながら、
ある旧知の人が「蒼樹さんの美人好きは隠せないなあ。」といっていましたが、まあそういうことかもしれません。
内緒、内緒です。
- 2014/09/24(水) 00:03:00|
- お店
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「この甘さは、どこから?」
「酢ですね。酢を熱すると甘みが出るんですよ。私ら中華の世界では、酢をちゃんと使えるかどうかは大きいです。」

「私らが修業のころは玉杓子や中華鍋が飛んできたり、いきなり尻をけ飛ばされたりした。」そうです。
「味も、調味料をいつどれくらい入れるかなんて、全然教えてもらえなかった。」んだそうです。
「私らの先輩はもっとひどかったんじゃないですか、扱われ方が。」

先日、楽天の星野監督がやめるというニュースを聞いて、また持ち上げ記事を読まされるなあとあまり愉快ではありませんでした。
チームの成績不振や選手のミスに対して椅子をけ飛ばしたり暴言を吐いたり選手を罵倒、時には鉄拳を振るうなどおよそスポーツの指導者にふさわしくないし社会人としても大問題の人物ですが、マスコミは変に彼を美化します。
大学などの体育会系サークルに依然としてはびこっている暴力体質、人権無視の体質の象徴のような人物が星野氏だと私は思ってきました。
根性だ、やる気だ、闘争心だと、それらは全部選手に「欠けているから負けるんだ」というものです。
監督にそれらが備わっていることを見せるためには審判に罵詈雑言で抗議したり、乱闘を助長したりするのです。監督自身の選手育成やコーチとの意思疎通に問題があり指導・助言が適切でないから若い選手が「できない、しない」のでその逆ではないという自覚、認識をお持ちでない人のように人に私には見えます。

おれがこう育てられたから、育ったからこうする、というのは指導者としては、賢明な考え方だと私は思えません。
指導・援助と、被指導・被援助を客観的に意識化していないからです。
私がこんなことを書いているのは調理人の世界にありがちな、徒弟奉公時代からの悪習に対してこの人が、ちょっと違う行き方をしているように見えたからです。
この時も、背中で「ちゃんと教えた通り包丁が使えてるか?」と見ているし、問いかけているのです。

若い衆は、また彼は彼で、包丁をできるだけ速く使おうと懸命です。
率直にいえば、速くしようとして力が入りすぎていると感じられます。でも、それはそれで仕方がないことで「包丁を一人前に使いこなしたい。」と思う彼の意欲の結果ですから。そう思わなければ力も入り(すぎるほど入り)ません。
「怪我をさせて休まれたんでは元も子もないからねえ。」と笑いながら、包丁の中ほどを使う意識で切るんだぞと、繰り返します。
私は、わきの締め方、手首の硬さ・柔らかさなど・・・、スポーツにも通じるなあなどと感心しながら・・・・。

私は、この店に行って、この若い衆がひつと一つ助言を受けながら「はいっ! はいっ!」と
「こいつは返事はいいんだけど。」などとからかわれながら、それでも持ち前の愛嬌のある笑顔で頑張っているのを見るのが楽しみなのです。


このお店に行くと、ついついカメラを出してしまいます。
- 2014/09/23(火) 00:02:25|
- 料理
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一人で出店していましたし、商品の様子がちょっと違っていました。
刺し子のようなコースターがありました。少し大ぶりの木製のスプーンもありました。
「こんにちは。どうぞ手に取ってみてください。」 この言葉のアクセントですぐに分かりました。
「你好 多少钱?」と声をかけようと思いましたが、

中国からの留学生だそうです。
目下、日本語勉強中。
いま彼女のE・メールアドレスと電話番号を書いてくれています。
もう少しこういうことにはいろいろ警戒しなさいと教えねばなりません。
[中国にいったらモノが盗まれ、値段がごまかされ、カバンなどから手を離すなと教えられます。中国人は・・・・、と。
しかし、こうして人を信じ、信頼するのも中国の人々の特性なのです。]
彼女はこれから大学を目指して勉強ですが、姉妹も日本に留学に来ていたそうで、その旺盛な意欲には感心します。
いつものことですが私自身の18歳、19歳のころを思えばこの人たちの人生に対するたくましさは異次元の感じがします。
私自身は彼ら彼女らに接することで、今こうして、人の写真を撮り、身の丈にも会わない個展などを目論むようになっているのです。
先日のYann氏などとも対話してみようという気にさせてくれているのも、こうした青年の存在です。

彼女の意識の中では、ここでいろいろ話したことで既に「蒼樹老師」なのです。
「先生(これは彼女が日本語を使っているのです。)。一緒に写真を撮ってください。」
それで隣のお店の方に頼んでツーショットを撮りました。
彼女のアイフォンには私との写真があります。

たまたま中国からのお客さんがきました。中国語で話す彼女は懐かしさでいっぱいです。

じゃあ、また会おうね。
再見。
- 2014/09/22(月) 00:00:41|
- 手作り市
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智恩寺(百万遍)の手作り市は京都の手作り市の中でも最もメジャーなもののひとつ。
せっかく京都に遊びに行くのなら15日の智恩寺の手づく市に合わせようと日程を組む方も多いと聞きます。
出展者もお客さんも京都以外の他府県の方が相当多くなってきたように見かけます。
このところ数回は悪天候に見舞われた智恩寺手作り市も、今回は「ちょっと暑いねぇ。」という声が聞かれるほど好天に恵まれました。
ところで、常々思うのですが、商品はもちろんお店の商品の並べ方や造作が出展者の外見や人柄にとても符合しているのです。

当たり前といえば当たり前なのでしょうが。
この方はアクセサリーを販売されています。
この手作り市には3回連続で抽選に当たって出店されているそうです。
その3回は、天候不順などで私は「欠席」だったり、足早に帰った時でした。
ですので初めてお目にかかります。

このごろでは出店の抽選はかなり難関になっているようですから、「次回は駄目かなあ。」などと気弱なことをおっしゃっていました。
が、近々路面店も出されるとのことでそちらの準備も忙しそうですから、それもよいのでは。

アクセサリーは明るい華やかな感じのもので、「どうぞ手に取ってみてください。」と促されても、私としては戸惑ってしまうばかりで、「どなたかへのプレゼントにいかがですか?」と、・・・・。
う~ん。

(きたない眼隠しになってしまってごめんなさい。)
出店準備などで昨晩は寝られていないということで、「写真はどうしようかなあ。」とおっしゃっていましたが。
次回の出店の保証もないことから? まあ仕方ありませんね、ということになって。
とは言っても必ず応募はされるようで。

カメラを意識すると「つい目をつぶってしまうんで、そんな写真ばかりなんです。」
そういう方、結構多いんですよね。
向き合って撮るとなぜか私のシャッター押しと同調されてしまう方もいます。
それでタイミングはずしの撮り方もちょっと工夫をするようになって・・・。

昼時でしかも逆光ですから、うまく反射光を探さないと。

初めてお目にかかってもなぜか話がはずむ方もいれば、そうでない方も無論おられます。

その違いはなんなんでしょうねぇ。
- 2014/09/21(日) 00:00:08|
- 装身具
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「100人のポートレート」と聞いて、初めは写真かなと思って関心を持ちました。
しかし、フライヤーをよく読むとそれは「絵」のようです。
日頃いろいろな会場で絵を見せていただきながら「人物を描く人が少ないのはなぜだろう。描かれる人物の人柄が捨象されているモノが多いのはなぜなんだろう。」と思うことがしばしばでしたから、なおさら興味を持ちました。

この方は来日して3年とのことです。そしてこの一年間で100人のポートレートを描かれたのです。
しかも?ご覧のようにベニヤ一枚分大きさにです。
描かれたのは京都府下の美山などです。

そこに取りあげられているのは実にさまざまな方々で、まさに老若男女、仕事も様々です。
小学生もいれば剣の達人も、祭り装束の人も、絞りの職人さんも、大工さんも・・・・・・。
私が何より感心したのは、その範囲に制限がなく、いわゆる著名な人を描いて人を描いたと思いこむ姿勢がみじんもないことです。

お話をしていて耳に残ったのは「ヒューマン」という言葉でした。
一人ひとりを人として描くということに徹しておられました。
それにしても一週間で二人のペースで人に会いその方を描くというのは、お願いして承諾を得るのも、日程の調整をするのも大変なことでしょう。
私のように偶然に出会って撮らせていただくというのとは違い、また写真と違って?それなりの時間をいただかねばならないでしょうから。
会場にはモデルになった方々が三々五々来られていて、作者と久しぶりの交歓をされていました。
ふと見ると私が撮らせていただいたことがある絞り(本疋田の名人)の職人さんも来ておられました。
人々に対するヒューマンな関心の深さを強く感じました。
そしてたまたま来ておられたモデルになった方たちを見て、実によくその特徴が描かれているなあ、と思いました。
無論単なる似顔絵ではありません。個性が描かれているのです。
多くは正面から描かれています。
この大工さんもそのお一人。

スタジオに招いて描かれたモノも、またご当人の工房や労働の場で描かれたモノも様々ですが、観光で知られた京都にとらわれない日本の人々が描かれている素晴らしさを思いました。
- 2014/09/20(土) 00:03:38|
- 絵画
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できればISO100で撮りたいと、なんとなく思いこんでいます。
フィルムで撮っていたときに「400じゃなくて100」という意識が刷り込まれてしまったからでしょうか。
感度を動かすと絞りとシャッター速度の組み合わせが混乱します。

どうかすると暗めに撮ってしまいますが、この人のおかげで・・・私としては・・・少し明るめに。
先ほどバスでたくさんの方が来られました。
その人込みに囲まれて撮り続ける勇気はありませんから、室外に避難です。
なかなかにぎやかな集団でした。
今日は結婚式もあるのでしょうか。別の一団も明るい話し声を残して部屋に入って行きました。

私たちも楽しく撮らなくては。
- 2014/09/19(金) 00:02:49|
- 人物
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ふと、こんな色にしてみたくなりました。 秋、 ですから。
ちょっと一休みして。

どんな絵にしようかな。

スケッチブックを持ってくればよかった。

いつでもどこでも、いいなと心が動いたら、・・・・。
設定は戻しましたが、

ソフトフォーカスを使いたくなるような、・・・。
カメラ女子御用達の写真雑誌に投稿してみましょうか。

- 2014/09/18(木) 00:00:52|
- 人物
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このグループは地域を生き生きさせるために自分たちの力を役立てようとしたり、高校生以下を無料にして若い世代に積極的に接触しようとしたり、いろいろ意識的な面を見せています。
そこに、ある意味でフォーク的な伝統が生きているのかなと思います。

地方でのコンサート、お寺を舞台にしたコンサートを繰り返してきて、この11月には2度目?の円山音楽堂コンサートを目指しています。
これは1000人規模の集客となりますから、実力がいないグループでは計画できません。
しかも京都のフォークの歴史を知れば、ある意味この円山音楽堂はぜひとも立ってみたいステージです。

それにしても各人が歌う声を持っていますから聞いていて気持ちがいいです。
ストリートのパフォーマンスは玉石混交ですね。

実際的には周囲に人がいるのですが、そして写真的にもお客さんを入れたいのですが、・・・・。
実際はこんなさびしく歌っているのではありません。
表情はいいでしょ?!

せめてこうしないと、実像と違いすぎます。
- 2014/09/17(水) 00:03:58|
- 音楽
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「薬師寺寛邦、麻生優作、山元サトシからなるフォークボーカルユニット。
キッサコ」(喫茶去)とは、 禅の言葉で、“お茶でも飲んでゆっくりしてください"の意。」
だと彼らのFBに書かれていました。
さらにFBから引用すると
「2003年京都で結成。京都の寺院を中心に全国でライブ活動を展開。 2007年ヤマハミュージックコミュニケーションより『拝啓 君へ』でメジャーデビュー。 今までに、シングル8枚、アルバム3枚をリリース。 薬師寺が仏門修行のため、2010年の京都コンサートホール公演をもって活動を休止していたが、 それから2年の時を経て、薬師寺が修行より戻り、2013年夏、再始動する。」
つまり、すでにマネージャーもついてメジャーデビューしているグループです。
が、そんな事とはつゆ知らず、「ストリートで見かけるグループの中ではちょっと傑出しているなあ。3人ともがそれぞれちゃんと歌える声をしていて、しかもしっかりきれいな声を出すことにも神経を注いでいるグループだなあ。」とそう思って、自転車を停めてしばらく聞いていました。

ここは三条大橋の東詰です。
三条京阪駅の前の少し広くなった場所です。
が、信号を渡ってくる人たちに向かって歌いかけようとしたのか西を向いて場所をとっていますから、これから太陽が西に傾く時間帯になると、「まぶしそうです。」
話を聞くと、これまで結成以来11年、外に打って出て10年の経験を持ているんだそうです。
確かにその実力が感じられます。

カバー曲とオリジナル曲を演奏しているのですが、
私が写真を撮っていい?! と尋ねると、どうぞどうぞと言ってくれて「じゃあ、演奏していた方がいいですよね。」と
演奏を再開してくれました。

その曲が、私の年齢を意識したのか、単に最近話題のTV番組の主題歌かだからなのか「若者たち」でした。
じつは、私も撮影しながら歌っていました。

今、長男役を妻夫木さんが演じていますが、私がみた「若者三部作」では田中邦衛さんでした。
高校生の時に初めて「若者たち」を見て、以来、三部作は4,5回ずつ見ています。
ですから一時期はかなりセリフがいえました。
最初は通っていた高校の教師が誘ってくれました。とても保守的な地域にある学校でしたから、このことはちょっと勇気のいることだたっと思いますが、その教師たちも若くて社会的正義感がいっぱいだったのでしょう。 いずれも他府県から就職してきていた方だったように記憶しています。

このグループは60年代終わりころから70年代に、この京都から全国に広がったフォーク・ソングの活動を意識しているようです。
確かにオリジナル曲を聞くとその気配があります。
しかし、敢えて言えばもう少しあの頃の歴史的な状況を追体験し、問題意識を共有してほしいなあとは感じました。
70年代にラジオ、テレビにも流れるようになってしまった、神田川のような換骨奪胎フォークにならないように。
今フォークの時代を懐かしんでさかんに歌われるモノは必ずしもフォークの精神を保持しているわけではないなあと私は感じています。
まあ、もっともフォークが何かということが問題でもあるんでしょうが。

作詞の才も感じられるグループだけに、大いに期待したいところです。
映画『パッチギ』の中で『イムジン河』が放送禁止になるエピソードがでてきますが、当時ストリートで歌われたフォークの持っていた熱さを、今日的に蘇らせてほしいな、と。
『パッチギ』も京都が舞台でしたね。
おそらく、こんなことは言わないでもよ~くご存じなんだろうと思います。歌詞にそれが感じられます。
- 2014/09/16(火) 00:00:36|
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私が無作法にもお店を覗きこんでいると、「何か?」と畳のことで用事があるのかと問いかけてくれました。
「いえ、通りすがりに働く姿を見たものですから、・・・。」と写真撮影の趣旨をお話をしました。
「写真というと普通風景とか・・・・。でも働く人を撮るというのもいいですね。」と快く承諾していただきました。

さすがに職人さんの道具です。使う技術の問題もありましょうが見事な切れ味で気持ちがいいです。

この畳は張り替えです。
張り替えるとイ草のいいにおいがしますよね。

お父さんの方はキャップをかぶって常にうつむき加減で仕事に集中されますので、撮影が難しい。
あまりお仕事の邪魔になる場所にまで入れませんし。
押さえる指先には相当の力が入るようです。

「見せたいものを直接写さなくていいんだよ。それをしているうちは引きつける写真にはならないよ。見る人の想像を引き出す写真がいいんだ。」とは師匠の言葉。

そういえば師匠(私が勝手にそう思って呼んでいるだけなんですが)は高齢になって足が弱くなり好きな、ほかの人が気づいていない場所に写真を撮りに行けなくなっています。
場所はいくらでも教えるよ。誰か声をかけてくれれば、行けるんだがなあと。
私は風景を撮りませんので残念です。
今度の個展のDMをお届けした時にも、DMの写真を見ていろいろ指摘していただきました。

「社長さんん、自分の写真を見せてくださいよ。」と・・・写真店のご主人ですから、客にはそんな風に声をかけるのです。・・・と長い間言われていたのですが、前回の個展の時に初めてDMという形で写真を見てもらいました。
「これなら人に見せ絵もいいんじゃないですか。」とおっしゃっていただいた言葉が、たとえお世辞でも社交辞令でもうれしくて自身になっているのです。こういう方の存在は大切ですね。
親子で働くときに、先代の存在は、おなじ様なモノなんでしょうか。
- 2014/09/15(月) 00:01:10|
- お店
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みなさんのお宅には畳部屋がありますか。
最近の建物は、ことに都市では、一軒に一間あればいい方でしょうか。
私の家などは一間で、その上その畳は3センチほどの厚さしかないものです。ですから畳の内部は藁でできたモノではないのです。
畳の張り替えをしたり、畳を裏返したりというようなことも個人宅では減っているでしょうね。
まして畳を屋外に出して、埃を叩いたりする情景はほとんど見られません。

でも、畳の部屋で大の字になって寝るという気持ちの良さは忘れられません。

この畳屋さんは2代目と3代目が継いでおられます。
お店の前を通りかかると熱心にお仕事をされていましたので、お邪魔を承知で覗かせていただきました。
私が子供のころよく見た畳屋さんとはだいぶん趣が違います。 畳針が見当たりません。
どうやらこの機械が縫うようです。

そして畳のヘリはこちらの機械が縫いつけます。
しかし、そこに至るまではやはり職人の手仕事です。
畳は重いのです。私に様な非力な人間は畳を担いで体育館一周しろなどと言われたら、きっとへばって畳を落とします。

この機械はコンプレッサーが送る空気圧によって畳を用い上げてくれます。そして回転させたり傾けたりしてくれますから、重労働はかなり軽減されているのかもしれません。
それでも機械のテーブルにセットするにはやはり人間の力でしなければなりません。
たくましい腕ですね。
- 2014/09/14(日) 00:00:44|
- モノづくり
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京都の手作り市は今でも増え続けています。
府立植物園でも手作り市がひらかれますし・・・。
手作り市への出店の潜在的な意欲はまだまだあるようです。

私のカードをこうして見せてくれた方はこの方が最初でしょうか。
こんな表情、しぐさをしていただくと「撮りたい。」意欲が高まりますね。
それにしても、このカード、一旦何百枚手渡されたでしょうか。
そのうちに、どこかで「ほら、私も。」なんて言う会話がみられるかも知れません。

ちょうど名刺交換のようになりました。
お店の宣伝を意図しているのではありませんが。

商品の良さはもちろんですが、それを作ったりり販売されている方の人柄は、こうしたお店では大きな違いを生むように思います。
こんな表情やしぐさをされる方とお話ししてみたくなるのは人情です。

次の手作り市では夫君もお店に出られるようですから、どんな方かぜひお会いしたいですね。
また素敵な人を見つけました。
- 2014/09/13(土) 00:00:57|
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画像が小さくて見えにくいとは思いますが。
アクセサリーなんですが、カラーリングがとても個性的で、ちょっと日本人的な感覚とは違うかな、と。

ことに夫君の制作だという、それは他のこうしたアクセサリーショップではあまり見かけない色の組み合わせでした。
でも? 「きれい!」「カワイイ!」と足を止めるお客さんは少なくありません。

この方の白い肌とすっきりとしたショートカットの髪に、イヤリングの色がよく映えます。
相当気合を入れて選んだという、このメガネからしても、この方のオシャレ度は分かっていただけると思います。
服に色を持ってきていないのでイヤリングの色が引き立ちます。

おしゃれはこうでなくちゃと内心思います。

今日は久しぶりの好天なのですが、テントの内と外、雲の流れが速いことなどが重ねって、露出でおたおたしています。

入院以来少々信頼感に欠ける愛機をなだめながらの撮影です。
- 2014/09/12(金) 00:04:04|
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今年の夏期は、手作り市にとっていささか以上のあたりの悪い夏のようです。
全国を眺めれば「あたりが悪い」では済まされないような被害があちこちで出ていますが、天は京都の手作り市のスケジュールを承知の上で雨を降らしているようにさえ思われます。
出店者の方たちの気持ちに比べれば私などははるかにはるかに気楽に出かけるのですが、その手作り市のどこでもお会いできる方がこの方。

元来は淡水魚の佃煮を製造販売されていたのです。
私は最初この方の「ちりめん山椒」を試食させていただいて、山椒のピリリとした刺激に「おいしいですねぇ。」とお話をしたのがきっかけでよくお話をさせていただくようになりました。

今もリピーターさんがちりめん山椒をお求めですが、パックに入りきらないほど山盛りのサービスです。
私がこの方とよくお話しさせていただくようになったのは、
私が「もう少し甘みが控えめでも・・・。」なんて、買いもしないのに試食の感想を言うのを、「次には工夫してきます。」と次回の手作り市では「どうです?」と改良版を試食させるからです。

この方は佃煮から今や「…味噌」「・・・ジャム」のようなものに中心を移しているのですが、
とにかくその創意工夫がとどまるところを知らないのです。

しかも材料の収集には予断、固定観念というモノがなく、これを活用したらどうなるか・・を次から次へと試作していくのです。
火加減、水加減、砂糖加減・・・・。熟し切って落ちてしまうような果物や、料理店に出されない魚などに目をつけて見事に「おいしい」と言わせるものを作るのです。
私はこれを野球の野村監督の「再生工場」になぞらえています。
人が見逃している、しかし工夫によっては美味しく役立つモノを見つけて来ては、その創意工夫に情熱を燃やすのです。
しかも、謙虚なんです。
「作ってみましたが、どうですか。」と試食用のつまようじにつけて差し出される「…味噌」「・・・ジャム」は実は私のひそかな楽しみになっています。
「う~ん、ぼくにはちょっと酸味がきついなあ。でも後味はとてもいいねえ。味噌といってももパンにつけてもいいかなあ。」などと好き勝手なことを言わせていただいています。
たまたま手作り市の会場が神社仏閣が多いことから、服には・・・・。
日本画家のお姉さんの作だそうです。 なんだか似顔絵のような・・・。
- 2014/09/11(木) 00:03:03|
- 手作り市
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下絵を見せていただくと二か所に、ことに制作に神経を使う個所があります。
今その前の方の山に差し掛かっています。

正直にうとこの人の表情をとるのにもう少し下から見上げたいのです。
しかし、それができません。
一つの理由は、手前にいろいろなものが置かれてそのポジションに入りにくいということ。
もう一つは、そうすることでこの方の視界に入ることを私が避けてしまっているということです。

この人が「顔が怖くなる」といってくれたことを、それくらい打ち込んで制作するから、もしあなたも作品をとるというのならばそれをとればいいという風にいっていただいたと受け止められない私の弱さがこういうところに出てしまいます。

「怖い顔になる」
それに比べて「趣味」に逃げているんでしょうねぇ。
こういう方に会うと本気度の違いを強く感じさせられます。

ですから、撮らせていただくことが「爪の垢をいただく」ことになればと・・・・。
実はこの方から八坂神社での行事の興味深い情報をいただきました。
その日は天候もよさそうなので是非とも長いレンズを持って撮りに行きたいと思います。
- 2014/09/10(水) 00:01:42|
- 工芸
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今朝までに予約投稿しておいた記事が一斉に公開されてしまいました。私が何か手違いをしたのかもしれませんが、八坂神社から帰宅すると、とんでもないことになっていました。突然拍手の数が跳ね上がっていましたから、何事ならんと確かめると、そういうことに。私に何かあったのかと心配していただいた方もおられました。
時々その日に書いた記事を予約にするつもりでいながら、そのまま終了して公開されてしまううかつな私ですが、今回は何があったのかよくわかりません。何日か前に書いて予約投稿にしていた記事は今朝まで無事に予約のままだったのですが。
一旦公開してしまった記事ですが都合上、再び予約にし直しました。みなさまには混乱させ、ご迷惑をおかけします。
写真の被写体になってくださった方にもご迷惑をおかけしました。 大変自らに厳しい方です。
そして作品に立ち向かう姿勢も厳しい方です。

作品制作のときに「撮りたいなあ。」といいますと、「もうしばらくしたら制作に取り掛かるから、その時に。」とおっしゃっていただいていました。
それで様子をうかがいに出かけたのですが、・・・・。

制作に取り掛かるときにはとても集中されるのは当然ですが、デザインの要所は織り方が複雑でより一層神経を使いますから
「顔が怖くなるからその時に・・・。」
と、撮影を許していただいたのです。

こういう制作の時に周囲でバシャリバシャリとやるのはご迷惑な話でしょうが、この方はぜひ撮りたい方なんです。
作品に向き合う熱というものが私とは雲泥の差で、その温度差を感じることで私自身も少しは熱量が高まるのではないかと・・・・他人本位ですが。
そうそう「爪めの垢を煎じて飲む」という伝来の言葉がありますね。
私が写真をとっていることの中にはほんの少しそういう意味もあるような・・・ないような。

元来できるだけ安直な方向に流れるのが私の悪い癖ですから、ときどきこういう方を間近に見て姿勢を正さないといけません。
- 2014/09/09(火) 00:05:34|
- 服飾
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撮った私が「よく撮れた。」と思ったからといってご本人のお気に召すかどうかは分かりません。
いや、案外?これが違っていることがあるのです。
ちょっと写真を分かってる風に撮ると、そういうことがおこってきます。

しかも昨日書いたように「女心」を分かっていないと・・・、そこに私の問題がある?!
狙っていること、見所が違うのですね。

しっかりチェック。
でも、私の目から見れば十分だと思うのになあ。

こうして写真を撮ること、撮らせることはまさに「人生交差点」
不思議な出会いでもあります。
お互いの人生の流れの中でそれなりに理由があってこういうことになっているわけですが、その背景は深浅様々でしょう・・・。

心理学的・人生論的・学問的探求をするとシャッターボタンもおせません。
「撮らせていただけませんか。」なんてぎこちなくなって、とても言えません。
イタリア的人生があるのかフランス的な生き方があるのか、日本古来の人生観が横たわっているのか。
そのあたりはひらりと越えて、「写真撮りましょう!」

人が人と出会って初めて「人間」だといいます。
会わなくては始まらない。

そこで「うん、この人は・・・・。」と思えたらお酒に誘う人もいましょうし、一緒に釣りしませんかということもありましょうし、「写真撮らせてくれませんか。」ということも・・・・。
そして中には「結婚しよう!」などとくちばしってしまう人もいて・・・・。そこで人生の舞台が回る。
教育学の概念に「レディネス」というのがあります。発達の臨界というようなものでしょうか。
人間の毎日にもそういうものがあるようです。

そして、何がなにして何とかなると、思わぬことだってするんです。
いえ、ただ南禅寺の三門をくぐってきただけなんですが。 泰山鳴動ネズミ一匹!!
写真苦手のこの方が、一所懸命カメラマンに協力してくれています。
- 2014/09/08(月) 00:05:09|
- 人物
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この人によれば、私は「虻」なんだそうです。
「虻」といえば、私などはすぐにソクラテスの「虻」を思い出します。けれど、私は無論そんな感心できるような「虻」ではなさそうです。
まあ「虻蜂取らず」の「虻」か、「アブ」ナイの虻くらいのことでしょう。

この方に初めてお会いしたのは北山の手作り市での事。
その後、縁あって写真を撮らせていただくことになりました。

私のブログを熱心にご覧いただいていて、「女性の目」で詳細に分析してくれます。
私はどうも脇が甘いからこうした方に「虻」になってときどき覚醒させてもらうほうがいいのかもしれません。
女性に対する失礼が分かっていないからです。そういうことを直截に指摘していただけるのは大変ありがたい。しかもその針は、あまりズブリと激しい痛みをともなわないで、こんな私にも受け止められるぐらいに「糖衣錠」にしてくれるからありがたい。
小人である私は批判に対してあまり耐性がないから、うっかり身構えて価値ある言葉を取り逃がしてしまうことが多いのです。

この人はあまり写真に撮られることが得意でないそうです。
そこで今回、それに挑戦してみる・・・という面があります。

果たして上首尾に事が進むのかどうでしょう。

ここはご存知の方も多い南禅寺の水路閣。
写真を撮る方が多いので、譲り合って・・・・。
やはり皆さん、ここから撮りたいと思われる場所は似たようなものですから。
そこで工夫できるのが「上手」というものでしょうが、なかなかそういうわけにはいきません。

ちょっと「いい女」になっていますか。

今日は望遠レンズを持っていなないのですが。
- 2014/09/07(日) 00:02:28|
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先日、京都の職人の内で親子で仕事を継いでいる方たちを、その工房で写真に撮った作品展を見せていただく機会がありました。
どこの職人の世界でも跡継ぎのことが大きな問題となり、手技を継承することができなくて、さまざまな工芸の分野が衰亡の縁にたっています。
そこで幸いにも後継者を得た親子に注目して写真を撮ろうという着目点は面白いと思いました。

職人さんの写真を撮らせていただく、それもその方ご自身の工房で・・なんていうことに対して私などは勝手にハードルを高くして・・・ここでは敷居を高くのほうがいいですね・・・到底かなわないことというか想像もできないことでした。

あまり光の条件がよくないだろうという思い込みが、なおのことしり込みをさせてきました。自分にはとても撮れないなあと。
まあ、実際そうなんでしょうけど。 でもその写真展をされている方はクリップオンのストロボ一灯で全てまかなって見事に撮られていました。無論、工房の照明や窓からの自然光を最大限生かしてです。
それにしても庭からの光を背にして親子二人が並ぶという、実に難しい条件でも見事に撮っておられているのにはうならされました。

「いやあ、カメラのおかげだよ。」とその方はデジタルカメラが高感度で撮れるようになったからだとさかんにおっしゃっていました。なるほどそれは事実ですが、それだけではあのような写真が取れないことは明らかで、またこうした職人さんたちに撮影を申し入れる関係を作り、カメラの能力を最大限に引き出し、困難な条件をモノともせずに映像化されたことはやはりプロの腕というべきだと思いました。

遠く及ばないなあと感じつつ、闘志が湧いてきたのも事実です。

制作をしている職人さんのほとんどは、皆下を向いています。大方がそうです。ですから構図が似てきますし、顔の表情(目)をとらえることがとても難しくなります。

でもやはり魅力的ですから、撮ります。

- 2014/09/06(土) 00:02:44|
- 伝統工芸
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街の景観を守るために条例によって建物や看板の色遣いが厳しく制限されている京都では、なかなかお目にかかれない色です。
でも、街にある小さな色たちを探して歩けばもっともっと見つかるかもしれません。

元来、仏教寺院も神社もアジア的色彩が派手に使われていたわけで、金ピカに極彩色だったわけです。
それが禅好みというか、詫び寂びというか、あらたなフィルターにかかって地味に落ち着いてしまいました。
もっとも、そんな中でもここぞといところにはきちんと色を効かせていることを見逃せませんが。

それをモノクロで撮れば・・・・。

うまく撮ればの話ですが・・・・カラーもモノクロもそれぞれに生かしたいものです。

この人がとっさに見つけてくれた壁です。
「えっ? ただ白いというだけの壁? 証明写真にならないといいけれど、・・・・」
私の感性が遅れをとっていますね。

カメラ女子誕生に協力しています。

今度の撮影のときには泣いたり怒ったり笑ったりもしてもらいましょうか。

- 2014/09/05(金) 00:02:25|
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お好きな写真家を紹介していただきました。この人の好みはなかなか本格的な写真家のようです。
詩的なあるいは哲学的な表現をする写真家の名前を上げてくれました。

そういう彼女からするとこうした写真はちょっと軽すぎるかもしれません。
でも、次がありますからね?!
「はいっ。」

これまで町をロケハンして歩くときに気付きもしなかった壁を、写真の背景として意識させるのは、この人の持つ力でしょう。
これからまた街歩き≒ロケハンが楽しくなります。

こんな、以前から知ってはいたし、どうにか使ってみたいなあみたいなあとは思っても、どう生かしていいのかわからなかった場所も、彼女が入れば絵になります。

私一人なら決して生まれない写真。
・・・・・どの人との写真も結局そういうことなんでしょう。・・・・・

そうかこういうことだったのか、と感じます。
このお店をデザインした人にも見ていただきたいような・・・・・。

ここもいいと思うけど、どう?
はいっ とってもいいと思います。

禿げたペンキの感じが出ていないので私の失敗なんですが、・・・・。

さびたトタンの壁はどうですか。
どこでもおしゃれな場所にしてしまう力があるようです。
これまでも、ちらりと書いてきましたが、今秋11月4日(火)から9日(日)まで写真展をします。会場は京都市中京区寺町通り三条上ルにある「ギャリエ・ヤマシタ」の2号館2階です。「
二度目をしなければ三度目はない。ということで前回が最初で最後にならないという決意を示すつもりの個展です。
少々強引で「個展開催おめでとう。」といっていただけるようなものではないのですが、自分としては今回もぜひ見ていただきたい写真があります。
多くの方々のご協力があって初めてできることだけに、その方々に報いるためにもできるだけ多くの方に見ていただきたいと思っています。京都の本格的な紅葉の時期はもう少し遅くはなりますが、それでもあちこちに色づき始めた木々が見える頃と思います。ぜひ、ついでの折にでもお立ち寄りください。 蒼樹
- 2014/09/04(木) 00:01:31|
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ここはギャラリー兼喫茶のお店です。
大変趣味のよい内装で、ご主人のお店に込めた思いが感じられます。
喫茶ですが、本の読める喫茶店です。 最近よく見られるようになりましたね。

この人にこのお店を紹介するつもりで入ったのですが、以前はいったときから「ここは撮影にぴったりだなあ。」と思っていましたので、・・・・実はその時に、今度いつか素敵な人を連れてきたら撮らせていただけますかとお尋ねしたのですが、マスターはどうやら失念されていおられるよで・・・・たくさんのお客さんを相手にしているのですからそんないつのことだかわからないような話を覚えている方が不思議です・・・・改めて、「ちょっとお借りしていいですか?」と。

とても快くお許しをいただいて。

何とかお店の雰囲気の良さも加味されるように・・・・。

私の大学時代の友人が最近、写真で岡山県展で入選したそうで、メールに添付されて送られてきた写真を見ると、なかなか良い作品を出品していました。
どんどん腕を上げているのが分かります。
楽しいだけで撮っている私より相当向上心があるようです。
そんな彼が、今度お前の個展の時に祝う会をしてやるから覚悟せよと言ってきました。どうやらいじめられそうなのでどうしようかなと・・・・。

この前、版画家の三嶋さんの個展や小森氏の個展の時のレセプションでいい出会いをいただいたのですから、私の個展もそんな風にいろいろな人の出会いになればいいなあとは思うのですが。
この人も「一眼レフがほしいなあ。」なんて言っていますので、この人にも祝う会に出てもらえれば、先の彼の「蘊蓄」は、私のことなど忘れて、きっとこちらに向けられるでしょう。

ほらほら、そんなことをしていると彼にとって「飛んで火にいる秋の虫」になっちゃいますよ。
もっとも彼がいなければ、私が蘊蓄おじさんになることでしょうが。
カメラもゴルフも教えたがりというのがいますからねぇ。

この人に刺激されて、ちょっと色を意識しての写真を撮ってみています。
- 2014/09/03(水) 00:04:23|
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それにしてももう9月の二日ですよ。 と、誰に言っているのか。
「二百十日」なんて言葉は最近あまり耳にしなくなりました。そんなことにお構いなく台風がやってくるからでしょうか。
早くから来たり、いつまでも来たり。
昔は今頃イネに花が咲くということで、特に意識されたんでしょうが、今は稲作の盛んな地域も変化しているし、早稲や晩生を育てて台風の被害を回避するようにもなっているからでしょうか。
しかし、そういう人間の工夫をあざ笑うように自然は乱暴さを見せることがありますね。備えに万全ということはないのでしょう。
さて、そういうことはひとまずおいて

大学生の頃大学のキャンパスには立て看板(タテカン)が乱立していました。
ベニヤを6枚も8枚も貼り合わせた大型看板もあちこちに見られました。
私も経済講演会や連続講座などの宣伝看板を何度も描きました。
ただ、いつどこで、誰が、何をするのかを伝えればいいというわけではありません。デザインによって訴求力が違うのですし、単純にあっちのサークル、こっちのセクトに負けていられないじゃないですか。

何しろ、「現代資本主義論」みたいな硬いテーマの講演会や講座を宣伝するのですから、どこかの左翼もどきのアジ看板のような独りよがりでいいというわけにはいかないわけです。
と、・・・・それでも相当独りよがりだったろうとは思います。

それもベニヤ6枚をタテカンに組み立てて、紙を張って看板にして、二日、三日で描き上げるというようなことにもなるのですから、大学から何時に帰ったのか帰らなかったのか。

このお店のご主人は私よりずっとお若いですが、大学時代をうんと楽しまれたてようで、「学生にはチャンスを上げたい。」と目を細める方です。
日中は、定休日にしかシャッターがおりていないのですから、学生たちは一週間をおいて描きます。この活動には1回生から含めて数十人が登録していて、都合の付く学生が交代で引き継いで描くのだそうです。

この人たちは将来もこのあたりを通るときに「あのお店のシャッターに・・・・。」と思いだすことができるんですね。

そして何より、こうして描いた経験が次に進む力を育てるんですね。

地域が支えて若者が伸びる。
いいですねぇ。
- 2014/09/02(火) 00:03:37|
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京都は学生の街でもあります。
何しろ花街のスナックのカウンターの向こうにも現役の学生がいるくらいですから。(いえ、これ否定的にいっているのではありません。)
全国他の地域の実践としてもよく見られますが、地元の商店街のシャッターに学生が絵を描く活動があります。
学生の構想や技量と商店主や商店街の趣味や要求とが簡単に一致するかどうか、現実的には様々なハードルがあるとは思います。
ですがそれを結びつける大学の教員たちと商店街・商店主の好意的連携が学生に実践の場を提供します。

学生は大学の中だけで育つわけではありません。
地域も学生を育てます。それは小・中・高も同じです。
学生・生徒に期待を持って役割を負ってもらうことは社会の中の「学び」を自覚する上でとても重要なことだと思います。

地域も学生の実情を知ります。

学校という存在が人々の生活的な願いからすっかり切り離され遊離しています。学習の内容もまた然りです。
小中高のあり方はより上の学校に向かって試験の問いに答える力をつけているだけで、知性も、理性も育てる気がありません。そもそもそういう問題意識さえないのです。問題集を解ける力を形成することと、自然や社会の仕組みや運動を理解してその知識や知的力量・技能を人々の幸福を拡張するために役立てようとする精神を育てるということとはほとんど別モノです。そのために仲間と共同して学ぶ喜びを体感させようなどという問題意識など虫眼鏡で探しても見つからないのではないかとさえ感じられます。

しかし、学生たちには社会と結び付いて有意義な知識や技能を得たいという要求は確実にあります。
大学と地域が連携する必要がそこにあります。
企業の青田刈りの別名になりかねないインターンシップなどを通じてさえ、少なくない学生はそのことを見つけよう、感じ取ろうとしています。

学生を取り巻く現実が、彼らを促しているからです。何故まじめに働いても人間らしい生活ができないのか。なぜ働くことが人生をすりつぶすことでしかないようになっているのか。なぜ大人も子供もこんなにストレスフルで飲酒にばくちに薬物に・・・依存するような社会なのか。企業では人権など見向きもされず、労働者保護法など紙くずにさえならないのはなぜなのか。人類の生存のためには人々が働くことが是非必要で、そこから生み出されたものが人々をより幸福にしてきたはずなのに、今働くことは人としての尊厳を足蹴にされることに我慢させられ、使い捨てられ、互いを傷つけあい、自分が失われていくことになってしまているのはなぜなのか。なぜ人は労働現場で死に追いやられるのか。
学生たちは、直感的にそうした疑問と不安を抱えています。そして学校や学びから、そして職場からの逃避も少なlくありません。その中にいることは自分を失うことだからです。そういう子どもたち学生にとってみれば
日の丸を国旗として掲揚しなければいけないだとか愛国心を育てなければいけないなどというようなことは、生徒や学生の成長の要求と何ら関係がありません。何も、どこにもクロスしていないのです。
- 2014/09/01(月) 00:03:00|
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