会場に入ると、魚ばかりです。
回遊しているような魚もありますが、水揚げされた魚が多いようにも見えます。
中には「おかしら」だけのものも

なぜ、魚なんでしょう。
彼の今回の展示のテーマは人間性を問うところにあるというのです。

彼は家業に参加していて「調理をしている」というのです。
つまり魚を下ろしているのですね。

ある時、魚を下ろすのに片手で魚の体を押さえ、区部のあたりに包丁入れると、魚の体が強く緊張したというのです。そrを感じた時に理屈では分かっていたつもりの「命をもらって人は生きる」ということが五感の反応を通して分かったというのです。

「魚」と言っても生きて泳ぐ魚と、水揚げされ死んでしまった魚とでは色も違うし、手に返ってくる弾性も違う。
まして切り身になってトレーに入れられラップされた食材は魚であって「魚」とは違う。

魚が静からしえ写ることをもっとよく見つめることは人間がどの地点に立っているのかを知ることではないかと、彼は言う。
その魚を食材として獲得しているとすればその魚が泳ぎその身に取り入れている海について我々は無関心でよいか。

写真を撮っている私の背後の壁面には、魚のうろこの密生する体面がいくらか図案化されて描かれています。どうかすれば爬虫類のそれのように見える色彩と絵具の照りの感触とが印象的だ。

同世代との間で言葉が通じない。そういうことを私は若いころに何度も経験した。
いや、むしろ今でも同じことを感じるのは一再ではない。
まして「いまどきの青年」はソクラテス的孤独をずいぶん感じることだろう。

表現し、反論を受ける覚悟をもつことは生半可なことではない。
そしてそれをすることは勇気が必要とされる。
それだから、そういう一歩を踏み出す青年には大いに拍手を送りたいと思う。
- 2014/07/31(木) 00:00:27|
- 絵画
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あるギャラリーのオーナーさんが「ぜひ一度足を運ぶといい。」とこのギャラリーを教えてくれたのです。
それはかれこれ3カ月ほど以前のことだと思います。その後数度立ち寄ったのですが、なぜか空振りが続いて。
こじんまりとした町屋を改装したそのギャラリーでは、この日、「書」の個展をされていました。
そこでギャラリーのオーナーさんと、書の作者の方と、しばし歓談させていただくことができました。
書の作品を展示されているのはこの方です。

非常に上品で教養の豊かな方とお見受けしました。節度のある社交性と物腰のしなやかさを備えた方でした。

このギャラリーは今年の3月に開かれたもので、まだ新しいのですが、立地の良さに驚きます。
遠方から出品のために来られた方は、この建物の二階・・・・ここも展示スペースなのですが、畳敷きにしてあるのです・・・・に会期中、宿泊できるのです。
階下には高瀬川が足元を流れ、目の前は桜の枝が伸び、夜が更ければ今日情緒ゆかたかな料理屋などの並ぶ街並みがみられ、対岸から人のさんざめきを眺められます。
この方みギャラリーのオーナーさんと意気投合して、オーナーさんの素敵な人脈を楽しんでおられました。
そもそもこの方を交えてのお話は、・・・酒肴を交えれば、なお一層なめらかさを増して・・・楽しいものだと思います。

作品は自由闊達な運筆の中に思考の深さを感じさせてくれるものでした。
一枚目の写真に見える人台にかけられた作品は10mもの絹地に墨痕鮮やかに書きこまれたものをドレスに仕立てたもので、パリでスーパーモデルが来て発表されたものだそうです。
書は絵画的な面をもつとともに、ある種写真にも似た面があるなと、この時感じました。
というのも書は文字や言葉を書きますから、その形や意味は与えられたものとして・・・無論自分が選ぶんですが・・・まず先にあり、それをいかにデフォルメし、構図を考え、墨色やにじみを工夫し、描く紙を選択し・・・などして表現していきます。
写真も、写す対象は極めて具象的なものであることが多く、私のような場合は被写体となってくれる人の形や表情を抜け出すことができません。
そういう制約性が書と写真に共通しているなあと、その時即興的に思いついたのです。


数え切れないほど筆をとって書きます。もはや無意識に「手が、身体が書く」というようになって、作品としての一枚に向き合うのだそうです。それまで研ぎ澄まされた意識をもって書きつくしてそれが無意識化するまで繰り返すのでしょうね。
そうして自分の中で熟しきって、滲みだすように、ほとばしるように書くのでしょうか。

浮世絵の線がそうであるように、もはやそこには迷いも慾もなく線が走るのでしょう。

この方のたたずまいにもそれを感じます。

私などうかうかと時を過ごし、惰性で仕事をしてきたものには、到底及ばない空気です。
柔らかくて、それでいて生き生きとした傍らにいてとても気持ちがよい空気です。

お茶までふるまっていただきました。
- 2014/07/30(水) 00:01:38|
- 書
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この方はデザインも製図も縫製も、布地ついても知識・経験をお持ちです。
服飾業界は多くの分業で成り立っていますが、こうして総合的な知識・経験をお持ちであるからこそ自主的な工夫・創造ができ、具体的な提案ができるのです。ここが肝要なところですね。
私のような門外漢の思いつき「評論」ではなくて、実物による提案ができる、そこが大事です。

最近の手作り市の盛り上がりに、作るものや消費する者の「よいもの」についての意識の変化がみられるということについて、まったく同感でした。
そして・・・もし手作り市の出店される方で、これをお読みの方は注目!!・・・いろいろな思いで手作りをされたものを「市」に展示されているけれど、縫製やデザインの「もう一段の工夫」や「完成度を上げる」技を「アドバイスできるんじゃないかと思う」とおっしゃっていました。
そしてそういうお尋ねがあれば喜んで力を貸したいとも。

この方には長年経験を蓄積してこられ、さらに新たに和服世界に実物で新たな提案をしたいという思いと技があります。
そういう方の援助が受けられるということはなかなかあるものではありません。
今度の教室で作るこの「ベスト」も、ベストの方から言えば「背骨の線に沿って背中が凹凸する」のは当たり前ですが、和服は、筒ですから身体に沿って裁断することはないと思います。洋服の立体裁断をされてきた方だからこそ、「和服」の世界にそれを普通に持ち込めるのだろうと感じました。

経験と、わざと、知識に裏付けられていますから、何かをしようとするときに、とても実際的で、なおかつ「考え・思想」があります。
長年働くということのとても望ましい姿だと思いました。
[ 新自由主義に浮かれた大企業は、労働者を人材としてか考えず、賃金を単なる費用としか考えない企業は、こうした才能を・・・その人の人生に対する敬意とともに・・・「ぞんざいに」みすみす捨て去るのです。 ]

この方からあふれる若々しさを感じます。
目前の課題を革新していこうとする気迫を感じます。

この方のブースのわきにはこの方が作られた帽子なども展示されています。
私の力でできることは小さいかもしれないけれど・・・・とおっしゃるその笑顔は輝いていました。
- 2014/07/29(火) 00:05:31|
- 服飾
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やはり人物はいるものです。
裁縫の教室の準備をされていました。生徒さんが縫うための「ベスト」の型紙を書いておられました。
このベストを和装の生地で縫おうというのです。
世の中にはいろいろの教室が開かれていますし、こうした服の仕立ての教室も少なくないと思います。
しかし、そこにどんなコンセプトを込めているのか、そこに関心を持ちたいものです。

話すうちにこの方にも昨今の和装産業の危機的状況を心配する強い気持ちがあることが分かりました。
そして座して衰滅を待つわけにはいかないという気持ちです。

アパレル関係のお仕事を長く続けてこられて、むしろ洋装の世界からここにたどり着いたという経歴をお持ちです。
「和服は着にくい」が常識となって、和服離れば進んでいます。そしてそのことを何とかクリアしようとさまざまな工夫がされてきたことも確かです。ですが和服を着る習慣が減退してきている流れを食い止めることはできていません。

『美しい日本』の復活を唱える宰相でさえも内外の公式の場に「民族衣装」たる和服で登場するのを、私は、寡聞にして知りません。 まあ実際には人前に「着もの」を着て出ることもあるのでしょうが。

いまここで書かれているのは「ベスト」の型紙です。
生徒さんの人数分を書いて準備するのだとか。全紙大の紙ですからコピーするわけにもいかないのでしょう。
また寸法も受講生に合わせて、いわば「S,M,L」を準備します。

この方が今着ている服も「和服」の形を生かしてご自身で裁断・縫製されたものだそうです。
襟元や素材がまさに「和」なのですが、襟繰りの大きな「貫頭衣」ですから、着脱は容易です。
「かぶって着る服は・・・・・女性には・・・不評なことがあるので、もっと襟繰りを大きくとって着やすくするようなこともするんですよ。」

このブースのある建物のスタッフのユニフォームの中にはこの方が製図・縫製したものがあるんだそうです。
見かけはまさに「和服」なんですが、とても着やすく活動もしやすい。それでスタッフの評判ばかりかお客さんの問い合わせが多いのだそうです。
作務衣を着るような感覚で着られるそうですが、遠目にも「着物姿」としか見えません。
実際の技術と知識をもって新たな提案ができるこの方はずいぶん頼りになる存在だと思いました。
- 2014/07/28(月) 00:05:23|
- 服飾
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「365日24時間死ぬまで働け」という表現があり、これはあくまで20年前の創業当時の理念だったにもかかわらず、従業員をそのように働かせているという誤解が生じたため「働くとは生きることそのものである」にした。
のだそうである。 いえ、ワタミの釈明のことです。
「24時間働け」という言葉の持つ意味は、働くことは人生そのものだから、一生働こうということだという解釈だろうか。
ここの釈明文には明確な嘘がある。「従業員をそのように働かせているという『誤解』が生じた」ということが一つ。誤解ではなく、そういう長時間労働の事実があったから、社訓が取りざたされるのでその逆ではない。
365日24時間仕事のことばかりに支配される人生を肯定して、その仕事を命じている企業の従僕にしてしまおうというという発想自体が問題にされているのに、それは人生観を説くことが趣旨だったなどというのは、後付けのへ理屈だ。
そういう人生訓だったら個人の書斎に書いておけばいいい。雇った労働者に押し付ける筋合いのものではないし、命令する性質のものではない。
企業が労働者に人生の教えを垂れることができるなどというのは考え間違いもいいところだ。企業と労働者とは道徳的な関係ではない。
リゲインは「24時間働けますか」を「3,4時間」に短縮している。
今、厚生労働省や環境省は影が薄い。
しかし、それはともかく人生の主要な部分は労働を通じて社会とかかわり、相互に支えあうことに注がれるということは真理だと思う。・・・じゃあ働けない人は人間じゃないのか、不完全な人生なのかという議論をすぐさま持ち出す人がいるが、人生はそう単純なものじゃない、議論は性急にするものではないとだけ言っておこう。
そうして多くの人は社会的労働の輪の中に参加する。その輪に加わって、人にかかわり人の役に立つ自分を見出すとそこに自分に対する自負と誇りが生まれる。自分自身が多くのエネルギーを注いでいる「働く」ということに深い思いが生まれる。
その姿は人生の中でも特に関心を引いていい場面だと思う。相互に敬意が払われていいことだと思う。
けれど客が神様になって働く同じ仲間をさげすむような社会。金で他人の労働≒人生を浪費させる事を雇った以上当然だと思えてしまう感性。他人の労働をうまくかすめ取ることこそ経済だ、成功だ、勝ち組だと信じられる社会。
そういう社会はおかしいと口々に言われるべきだと思う。
まっとうな人間らしい労働の中で輝いている人々はもっと評価されていい、・・と私はそう思うのです。




- 2014/07/27(日) 00:01:47|
- お店
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私が学生の頃は70年安保でした。
4・23,4・28,6.23と連日のように集会にデモにと・・・・。
集会が解散すると仲間と空腹を満たしに行きます。そのころよく通ったのが「珉珉」という中華料理店。大概どこも汚くて窮屈で居心地がよかった記憶があります。そして壁には学生たちのやりたい放題の落書き。
反帝、米帝、革命、沖縄返還などの文字が踊っていました。「左翼小児病」という言葉はこのころ知りました。
青年期の麻疹にしてしまった者も少なくはありませんが、どっこいここで学んだ民主主義や平和思想は今日まで細々とでも命脈を保って仲間の絆を作っています。そしてこの時に腕(かいな)を組んだ仲間たちはそれぞれが生きてきたその場その場で民主主義者としての行動を選択してきました。
あの時の安保条約廃棄を求める広範な国民のうねりによって、軍拡派や憲法なし崩し派の思惑は、大きく修正を迫られました。 (今回も必ずそうなります。)
と言ってもそれはウン十年前のこと。今の珉珉とは直接には何の関係もありません。店はきれいになっていますし、落書きはもちろんありません。
でもそれはちょっとさびしいかな。
偶然入ったある珉珉のお店。そこに「素敵な」タイショウがいました。
私はかなり気に入っていますのでしばらく通いたいと思っています。
それはこの人です。私は勝手に「タイショウ」と呼んでいます。

笑顔の魅力と人に対して・・・それが客であれ従業員であれ・・・細やかな気配りで声かけする心のしなやかさ。
ビジュアルも相当気にいっています。

私たちに見せる表情はいつもにこやかで優しい感じですが、存外頑固で厳しい面も持っているのかもしれません。
なあなあの優しさでない、と感じさせるからです。
私が誉めますと「このあたりがむずむずとして落ち着かない。」と首のあたりに手をやります。
結構テレ屋です。

奥に餃子を焼く若者がいますが、彼からも信頼されていることがよくわかります。
この若者も愛嬌のある笑顔の持ち主です。

年長者と若者との良い関係が、見えます。
年長者がこういう気配を出せるということが大事だなあと思います。
- 2014/07/26(土) 00:05:21|
- お店
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「殺す」だとか「締める」だとか、はたまた「逃がす」などと一体どんな世界の人だろうと思うような会話をしていたこの方は、扇子作りの職人さんでした。
同じように「作る」作業の中で使われる「業界用語」でした。

「作業をされますか? もしよければ撮らせてください。」
「じゃあ、一仕事するか。」
ということでついていきました。

竹を薄く削った扇子の骨を一本ずつ二重になった紙に差し入れています。
「狐に化かされているよう」な手技です。
「どうやっているんです?!」
「ちょっと練習すればだれでもできるよ。難しくはない。」とおっしゃいますが。

「いや、そうは言われても・・・。」
「小学生でも一度教えたら上手にするよ。 どうやってみる?!」
と、言われるのでやってみました。

う~ん、やはりなかなか難しい。
でも「跳ねるんだよ。」という言葉の意味がやってみて分かりました。竹の骨のしなりを使って次の紙の穴を探して入れていくのです。

差し入れた深さをそろえます。

言われた通りを意識してやっているようでは到底追いつきません。
「なんてことないだろ?!」 ・・・・・ムムム。

骨を入れる紙の隙間は息を吹きいれて広げます。
息を吹きいれて、指先で押さえます。すると単に広がるのではなくて、口が丸く広がって戻らないのです。
その力の加減も、・・・やってみましたが・・・大苦戦でした。



- 2014/07/25(金) 00:03:17|
- 伝統工芸
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この会場には周囲に貴重な工芸作品が展示されていますので、会場内撮影禁止です。
で、以前来た時には職人さんにお尋ねすることなく、撮影を諦めていました。
いえ、実際には2,3度お願いしたことはあるのですが、・・・・、その時には「ここではまずいんだよ。」と断られたことがあったのです。ずっと以前のことでしたが。

今回はたまたま会場のスタッフが近くにいるときに、「撮影してはまずいんでしょうか?」とこの職人さんにお尋ねすると「どうなんだろうね?」とスタッフに聞いてくれました。
「他の展示物を撮らないのだったら、個々の職人さんの気持ち次第ですよ。」とのこと。

そんなわけで撮らせていただいているわけで、・・・・。
竹釘の作り方を教えていただいたり、
この箱のふたが実は優しく盛り上がってアールを作っている効果なども・・へーなるほどなあと幾度も感心。
カンナの削る音の良いこと。

腕の良い職人が手入れの行き届いたよいカンナを使うときれいなカンナくずが出ます。
昔子供のこと建築現場で飽きもせずに鉋がけを見ていたことを思い出しました。
シュルーッシュルーッとカンナくずが舞い上がり、ときどき大工さんがカンナの頭を叩いて刃を調整していました。
箱は小さいですから、シュワッ、シュワッという音がします。

お年を聞くと私とほぼ同年輩なんですね。
方や現役でモノ作りをしていて、肩やリュックにカメラを入れて街をほっつき歩いているんですねぇ。

この方と「殺す」「締める」「逃がす」などとなんだか不穏な話をする方が来て、次にこっちに来いと別の場所に連行されましたので、明日はその話。
- 2014/07/24(木) 00:00:15|
- 工芸
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元来、職人たちとの接点のない私でしたから、ある場所で行われていた職人たちの公開の実演が、行政の予算削減によって行わなくなると、出会いの場をなくしてしまいました。
今はこの会場で、土・日・祝日に見せてもらうことができます。

以前毎週のように通った場所は西陣の染めと織物関係の職人たちの実演でした。
ここでは京都の伝統工芸の様々な分野の方が・・・その時々には少数ですが・・・見えます。

この方は40年の経歴を持つ指物師です。
木の板を組むことで箱や机などを作るのが指物師。

私は、ある事情で急転直下今の住居にすむことになりましたが、新建材の寄せ集めで作られた建物のあちこちには木材どおしの隙間や切断面のゆがみがみられてがっかりします。
建具などはおよそ職人の仕事とは言われないものです。
触れた指が「いやいや」をしそうです。
まあ私のような低所得者では仕方がないといえばそうなのですが。

わきに完成した名刺入れがいくつか並んでいましたが、その精度の高いこと。また狂いがないばかりでなく、触れる指先が心地いいのです。組まれた木の板同士も気持ちよさそうに、すっとおさまっています。
特段、気合の入った仕事というのではないのですが、「まあそうしないと気が済まないんだね。職人の性かな。」

良いものを作ったら売れるという時代じゃないものね。
昔は分業する職人同士の競い合いがあったけれど昨今はそういう緊張感もないし、・・と残念そうな寂しい言葉です。

この桐箱のふたをすると、ほんのわずか木同士がふれあいながら空気が抜ける抵抗を感じつつ落ち着いていくのです。
心地いいですね。
- 2014/07/23(水) 00:02:49|
- 工芸
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音楽は、ライブのその場で交歓できます。そこがいいですね。
写真はそうはいかない。
私にとってブログはとても貴重なツールです。ですが、見ていただく方との交流という点では決定的にもの足りません。
そこで写真展です。

でも、もっと何か良い方法を見つけたいですね。
やはり移動式、ゲリラ式写真展が打開策でしょうか。

あるいは以前にも書いた手作り市への参加でしょうか。
音楽や大道芸は「投げ銭」でお客さんとつながっています。写真でも「投げ銭」式をしましょうか。
投げ銭をお願いするということは「聞く価値がある音楽をする決意と技術の裏付け」の現れですもんね。

写真を買っていただくことは・・・私の場合は・・・できにくいので、やはり「見てのお帰りに」「投げ銭」をしていただく。
大したことないね、といって投げ銭箱をパスしていただくのも・・・痛いには違いないですが・・・・勉強です・・・かね。
そんなことこがこの軟弱者にできるでしょうか。無理でしょうねぇ。

そういう意味で路上パフォーマー、あなたたちは偉い!!

11月の写真展には何か工夫ができるでしょうか。
う~ん。
- 2014/07/22(火) 00:02:56|
- 音楽
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ここ岡崎公園の「平安楽市」、北山の「クラフト・ガーデン」、そして下賀茂神社の「森の手作り市」には音楽があります。
市には人が集まる。人が集まれば歌舞音曲が人を楽しませる。いつの時代でもそうなのかもしれません。
まして公営や権力による統制や育成によるのでない、市民(町衆)の自由な市においては。

今日はギター2本とアコーディオンです。
生で聴けるというのはとにかくありがたいものです。ライブは演奏するほうも聞く方もお互いの呼吸で感応します。

こうした場所ではお客さんはいたりいなかったり。ときには小さな子供の闖入もあります。
形式ばらない自由な空間です。
だから拍手も正直です。

この方たちの実力が拍手を呼びます。

拍手、と言えば私のブログへの拍手がこのところ激減です。
1か月の平均が50を上回っていたのですが、ある時から急激な右肩下がりで、最近は1日30に達しないことも。
これも私の実力です。いえいいえ、30人の方の「拍手」に感謝。

いろいろな「数」のうち「拍手」だけはちょっと気にしていたのですが、・・・。
まあ、写真を撮るのが楽しい。見ていただける人がいればなおうれしい。そして時に共感していただけたらこれにすぐるものはなし。・・・と、ですから、まあいいんです。
楽しく写真を撮りましょう。
- 2014/07/21(月) 00:03:30|
- 音楽
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ご覧ください。すがすがしい青色の青磁です。
縁の白さと相まって清潔感と品のある仕上がりです。

青磁は中国でも高級品です。
焼き上げるのに手間もかかるんだそうです。
そしてこの発色。
この酒器はちょっと高価そうですが、値段にかかわらず、
美味しい冷酒を注いで飲んだら、さぞかし・・・・。

作家として「芸術的な質」をもったものを作ろうとして、日日刻苦している様子です。
多くのこうしたモノづくりの人が「作品を通して自分を表現しているので、自分自身に目を向けられるのは・・・、」ちょっと苦手だし落ち着かない、といいます。
この方も写真は苦手だとおっしゃっていました。

私が何枚かの写真を見ていただき、制作の時の様子を撮りたいといいますと、「こういう写真はいいですね。撮ってもらった人は喜びますよ。」とおっしゃる。
ただ「自分の工房はひどく散らかっているし・・」と・・・・。

まあ、大概、工房は人に見せるためにあるものではないし、おっしゃることはよくわかります。
ご自分の作品が「高級なものに属するので、どうやって多くの人の手にとってもらえるか、作品の価値を分かってもらえるか、いろいろ考えます。どこか遠いところに飾られているだけでない楽しんでもらえるものでもありたいし・・・。」
工芸作品の多くがそういう問題を抱えているように思います。良いモノはとても手間がかかり素材も質の良いものを使っています。制作の技能も並大抵ではありません。
でも「・・・・のようなもの」という代替品が安価に作られ、多くの人はそれで済ませてしまう。

「豊かさとは何か。」という問題でもあるように思います。

「これからいつまで辛抱できるかわかりませんが、いまのところ一所懸命よいものを作って、手の届くところで見てもらおうと思っています。
ですが、いつまで続けられるか・・・・。」
若手作家たちの共通した悩みです。
- 2014/07/20(日) 00:00:24|
- 陶器
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祇園祭に出かけても「人を撮る」がメインです。
ここは放下鉾。
祇園祭りは町内の町衆が支えているのですが、その町衆の中には地元に根差した企業もあります。

ここの販売や案内はその企業の方たちが参加して祭りを支えています。

お願いして撮らせていただいているのですが、

何やら差し入れのようです。
暑いですからねぇ。


- 2014/07/18(金) 00:00:13|
- 人物
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実はこの方の二人の息子さんも一緒にいて、お兄ちゃんの写真もパチリ。
でも未成年で本人の了解も得ていませんので、公開はできません。・・・連絡くれたらメールに添付して送りますよ。1枚だけですが、いい表情でバッチリデス。

お客さんもついこの方の笑顔に引き込まれます。


妹さんです。
家族一緒に出店するなんて、羨ましい家族ですね。
家族の中には歴史があって、それぞれいろいろご苦労があったとしても・・・私の家族も同様ですが・・・とにもかくにも支えあえる家族があるということは幸せなことだと思いました。

梅雨の雨模様の日々と台風で、気温はさほど高くない日々でしたから、今日の暑さは応えます。
私が凍らせて持ってきたペットボトルの水も生温かくなっています。

私もこのところの体調不良を、敢えて「外に出よう」とやってきたのです。
心理的に負けていると・・私の場合・・・もうあまりない時間をむざむざと送ってしまうことになりますので、写真を撮ることで元気になろうというわけです。
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- 2014/07/17(木) 00:03:38|
- 雑貨・カード
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このところ「手作り市」で撮らせていただいた写真が少なくなっています。
理由はいくつかあるのですが、一つは「雨」。二つ目には、別の撮影との競合。三つ目は、私の体調不良。

ですから、常連化していたはずなのに欠席が増えて、そのうちに出店者にも幾分の変化が。

この方のテントには2枚の看板が下がっていました。
「お二人で参加ですか?」
「いえ、本当は3人なんです。三人の作品を並べているんです。」とのこと。

この方の妹さんと、そしてお二人のお母さん。
三人とも手先が器用でものづくりだお好きなのだとか。

今日が「手作り市」出店のデビューなのだそうです。
道理でお顔に記憶がないはずで・・・・。
何回か手作り市を偵察、いえ下見をした結果、今日この会場に出店されたのだそうです。
つい昨日まで記録的に強い台風の接近が心配されていましたが、この日は湿度たっぷりの暑い夏!!
体力的には辛いところですが、「台風に比べれば・・・・。」

お店で接客のお仕事をされていたこともおありだそうで、慣れたものです。
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- 2014/07/16(水) 00:01:33|
- 雑貨・カード
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多くの場合音楽には民族性が色濃く見られます。
民族は異なった別の民族と出会うことによって自身の特質を知ります。
自民族の内側だけを探って民族の特性や優秀性をあげつらうのは、単なる独りよがりの思い込みでしかないと・・私は思います。
他民族の音楽(などに)触れることは、その意味で愉快で滋味あるものと思います。

以前にもこのブログに登場していただいた方ですが、・・・・前回はお二人での演奏でしたが・・・・今回はお一人でした。

演奏は圧倒的な迫力です。
その「迫力」を絵にしたいのですが、・・・・。

前回も同じような構図でした。
やはりケーナなどの音は高い空に響き上っていくというイメージがあります。

吹く楽器は、より一層肉体性を感じますね。
生命の躍動感というか、・・・・。

日本文化のメッカのようなこの京都で聞く異国の音楽・・・・・それもまた意味があるように思います。

この色彩が一段と民族性を強調しています。
- 2014/07/15(火) 00:02:13|
- 音楽
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この方は元来はクラシックのジャンルの方だったのだそうで・・・・。
「ジャズのときにはリードもマウスピースもクラシックの時とは違うんですよ。」と教えていただいた。
それでジャズの時は音量が大きくて、クラシックでは繊細な弱音を要求されるのだとか。

今回は音を出せるロケーションではないので残念です。
「吹いている『振り』の写真は撮らないようにしてるんです。」

管楽器の場合、演奏する時の口元や頬の形が「あんまり撮られたくないんですよね。」と彼女。
そういえばずっと以前フルートをしている若い女性が「後ろからならいいです。」と正面からの写真はダメです!と言っていたことを思い出した。
次回は吹いてもらえる場所を探して撮りたいものです。

うれしいことに「あと二回は撮りたいのです。」という私の願いは聞いていただけるようです。
こういう一枚が撮れると、この人をもっともっと撮りたいという気持ちがさらに高ぶります。
今度の写真を見てもらって「もっとこんな風な写真を撮ってほしい。」とイメージをふくらませてもらえば、私のイメージ×この人のイメージ で、またいいものが撮れるかもしれません。
カワイイ系で撮るのがいい? それとも美人系?
この方はどちらがいいと答えたと思われますか。

2X才のこの方がもつ女性の多様な面も撮りたいものです。

サックスは容器産業の工場のように人工的で金属的・工業的造形をもっています。
それをこうしたやわらかいやさしをもった女性が持つところにまた面白さがあります。しかもジャズサックスは結構迫力のある音を出しますし。
ただきれい、可愛いというものでない写真が撮れるように工夫していきたい・・・・とおもいます。

<
- 2014/07/14(月) 00:03:01|
- 音楽
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待ち合わせた時、この人は私の顔や体格や・・もちろん人間性も・・・ほとんど何も知りませんでしたから、不安なことだったでしょう。
そのうえ、私は携帯電話をもちませんから、待ち合わせの場所で「今どこにいますか?」と連絡しあうことができません。
案の定ちょっと不安げに待ち合わせの場所に立っていました。
商業写真家の場合、クライアントやお客さんから撮影の依頼が入るのでしょうから、撮りたい人、撮りたいものだけを撮るわけにはいきません。その点、私の場合は恵まれています。
たまたま見つけて声をかけるとはいっても私が気にって声をかけているわけですから。
そしてうれしいことに皆さん人柄もとてもよくて、撮影はいつも楽しいものです。

その半面、どんな場所でも利用できるとか、スタジオに照明を配置して撮るだとかいうこと、あるいは服やメイクを凝らしてとかいうことはできません。
その方にお願いしてできる範囲で、誰もが使える公共の場所や、趣旨を説明してお許しを頂いたお店などが撮影場所です。
実は今日この人に会う前に町をうろついてロケハンをしていたのですが、おしゃれで愉快な店を見つけました。その店のあたりを何度もうろうろして店内をのぞきこんでいました。不審者だと思ったのか「おなかを減らして適当な店を探している」と思われたのか「どうぞこちらへ」と手招きしていただきました。
それで、最低「怪しい者ではありません。」と怪しい者のいつものセリフを口にしながらお店に入り込みました。

そこでこういう人を撮る場所を探して歩いているんですと説明すると、「いいですよ。」とお許しを頂きました。
無論お店によって対応が違い、おおむね女性オーナーのほうがOKの場合が多くて、男性が応対されるとつけられる条件がとても多くなります。
今回はお借りするのを見合わせましたが、次回はきっとそのお店にはぜひ行きたいと思っています。
呑みに行くのもよいかもしれません。
次の2枚を見ると、写真て難しいものだなあと思います。

そして面白いものだなあと。
- 2014/07/13(日) 00:01:47|
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カメラも雨が苦手ですが、楽器も濡らせません。
幸いこの場所には屋根があって、面白い造形の建物ですから、・・・他のお客さんが来ないことをよいことに・・・ゆっくりと撮ります。

音楽のアートティストたちが自分を紹介するのに、どんな写真がいいのかなと思いながら撮ります。
CDジャケットの写真とか、楽曲のイメージも込めて。

演奏する曲によって、演奏会場によって、ポスターやプロフィールの写真も変わるでしょう。
そして何よりそのアーティストに対して好感を抱いてもらえるように。

こういう時、私の写真が商業写真でないことが、私には楽しい。
この人もやがてプロの写真家に撮ってもらうようになるのでしょう。

それまで私の写真でお役に立つなら。 う~~ん、果たして役に立つかなあ。

初めてこの人を見たジャズのライブのときには、私の印象は「4回生くらいかなあ。」・・・。
どうやら、ちょっとだけ違うようです。
このくらいの年齢の人のこの揺れ幅が私には魅力です。
ついそこに目が行ってシャッターを切ってしまいます。

この人の実年齢がお分かりになりますか。

私には楽器ができる人に対する憧れがありますから、今度のチャンスはとてもうれしいのです。
- 2014/07/12(土) 00:00:20|
- 音楽
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梅雨の真っただ中、その日は昼を過ぎて雲行きがおかしい。雲が厚く黒くなってくると、やがてポツリ、ポツリ、サーっと細かな雨が降ってきた。
待ち合わせの場所でその人を見つけたころには、傘が必要になっていた。

「撮りましょう」というお話が持ち上がって、「では、事前に少しお話をしましょう。」と鴨川の近くで待ち合わせた。
様子で少し撮らせてもらうことになるかもしれませんとは伝えていたが、お互いが顔を合わせるのは事実上今日が初めて。だから、一回目の撮影に備えての「お茶」のはずだった。

写真の「モデル」をするのは、これがまったくの初めてではないのだそうだが、「人のいる所での撮影は、ちょっと・・・。」という。 なんでもプロフィール用の写真を知人に撮ってもらった時には、「いい場所を探してずいぶん遠くまで行ったんですよ。」とのこと。なるほどフェイスブックを飾っている写真は、背景の緑がすがすがしく、楽器ケースの赤が印象的ないい写真だ。
人前ではと言われて、ジャズバンドに交じって演奏をするのを見かけて「撮らせてくれませんか。」とお願いした人だから、ちょっと意外だった。
だからこそ人というのは複雑で魅力的なんですね。

雨宿りを兼ねて駆け込んだビルの地下にある店の前や、カフェバーへの階段で「ためしに撮ってみましょう。」と。
えっ?!こんなところで撮っていいんですか? と、とても健全な「常識」を待った育ちの良さを感じさせる方だ。

「ここは、待ち合わせの前に事前に承諾を得た場所だから、大丈夫ですよ。」
楽器ケースからサックスを取り出してもらって、私の好きな感じのカットを数枚。

場所をかえての撮影ですが、背面液晶の画面をときどき見てもらいながら・・・・。
「これ、好きです。」
私もこういう写真を撮りたいので、この人とは、よい相互作用でよい写真が生まれるかもと期待が膨らむ。

サックス奏者としてと、「この人」と両方撮ります。
- 2014/07/11(金) 00:01:49|
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写真仲間や知人たちが会場を訪れる。
後ろの壁面の右手、ヌード写真があるが、それは自宅にモデルをしてくれる方を招いて撮ったのだという。
並んだ人物写真の中には海外の人も幾人かいる。
それぞれがこの方の出会いを記録してもいる。

今回過去のフィルムの中から改めてご自分で焼き直したのだそうで、この個展には手間とお金がかかっている。
私の個展などとはずいぶん気合が違っている。
今回の個展に向けて新調されたフレームも何点かある。
「新しくそろえたんですから、今回で終わりなんて言わないで、またやってくださいよ。」とお話しすると
「そうはいっても人間どこかで終わりにするということが大切だから・・・。」と繰り返される。

私は自分自身の少し先の姿を思うものだから複雑な感じを抱く。
もう残された時間はそれほど長くない。

この方のように静かにきっぱりと自分を処することができるのだろうか。
いや、そこに至るまで撮り続けて、何かの意味のある作品を残せるのだろうか。

こうして仕事の傍ら撮り続けてきた軌跡を見せていただいて、私などはそのことだけでもずいぶん鞭撻される

写真を撮ることでも形作ってきた人生。
撮らせていただいているこの瞬間がこの方と私の人生の交点。
素敵な笑顔です。
- 2014/07/10(木) 00:00:25|
- 人物
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4回目の個展だそうです。
これまでの集大成としてお気に入りの写真を相当過去のものも含めて展示をされた。

写真歴がほとんど私の全人生と同じという大先輩です。
写真はすべてモノクロ・フィルム撮影で、ご自身の現像・焼き付け。
「デジタルを一から始めるのには時間がないということもあるけれど、やはり銀塩の写真のトーンが断然いいから、モノクロフィルもで撮り続けてきた。」とおっしゃる。
良いフィルムも印画紙も生産がされなくなって・・・と幾度も幾度も残念そうに繰り返される。

今はせっかくフィルもで撮っても「インクジェットのプリンター」で印刷されて帰ってくる。
「銀塩現像をしてほしい」と言ってももうしてもらえない。きれいな黒が得られないのではフィルで撮る価値はない・・・,と。

作品は風景と人物。
ずいぶんいろいろな地に足を運んで撮ってこられている。
「もう同じ写真は撮れない所がほとんどだ。ここは・・・・。」と建物が建ったり鉄塔が建ったり地形が変わって、もはや往古の景観は二度と帰ってこない。
せめてこうして写真として残せてよかったと、時に熱く時に静かにお話しされる。

もう年だからね。今度の個展を最後にするよ。
撮りたい風景に会いに行くことができない、と寂しく語る。
「人物も昔のように撮ることはできないね。いろいろうるさくなったし、撮りたいと感じさせてくれる人にも出会わなくなった。」ともおっしゃる。

プロの人を撮るのは、・・僕は嫌いでねぇ。
仕事で、演技で笑った顔は撮りたくないし、その人に知性が伴わないと撮りたい気持ちが湧かない。
たくさん撮ってきたからねぇ。 奥さんに内緒にしてきたこともいろいろあるし・・・。
えっ?! カメラとかレンズですか?
うん、まあ。
はは、武士は相身互い・・・ということで。
- 2014/07/09(水) 00:03:23|
- 写真
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この植木用の「バリカン」を水平や垂直を保って操る作業をするのは見ているほど簡単なことではなかろうと思います。

この写真では雨が降っているのが分かりませんが、等倍で見ると、案外しっかりと降っています。
わたしは、無論、小降りになった時を見計らって撮っているのですが。
身体は多少濡れてもカメラは・・・・。
たまたまこの日はキャノン5Dでしたから、ソニーよりは「防滴」の備えはあるんだろうと。

オートフォーカスが利きませんから、MFです。そうなると最近の私の視力では、このキャノンのファインダーではピントを合わせるのが辛い。 マットをかえたらもう少しましなんでしょうか。

こういう「仕事を撮る」時はつい夢中になりますね。
この方たちもとても気さくに「いいよ。」と言ってくれましたからなおさらです。
もっといろいろな作業の瞬間を撮りたいものです。

FC2ブログのこの画面にも「不労所得」が得られる方法を伝授しようという広告が出ます。
不労所得を得ることが道徳的にマイナスではなくなってしまっているこの日本の精神状況。
「働かざる者食うべからず」ではなくて「うまくやったものが勝ち」「うまく立ち回るのがよい生き方」
だからカジノの合法化や、カジノ誘致に政治家や経済人が血眼になってそれを恥じない。
「まずお前が子供を産んだらいい」というヤジに同調して「笑う」政治家の文化・常識と相呼応している。
この国の「一般的な道徳」はその程度のものなのだろう。だから「号泣(の振りを)してごまかす政治家」が1万票も集める。

「汗水を流して稼ぐ」人々のすがすがしさがもっと当たり前に評価されなければならないと思う。
- 2014/07/08(火) 00:00:36|
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ある日のことロケハンのためにあちこち行き来していると、・・・・。
とあるビルの中庭で・・・・。

私は、いわゆる京都風ではない場所を探して、ビルの間を回っていたのです。
この日は休日でしたから、仕事をする人はいないし静かに見て回れるだろうと、・・・。無論、立ち入りが許されている場所を、ですが。

すると職場としてのビルが休みの日だからこそという、職業人たちがいました。
植木職人たちです。

立ち入りが禁止されてはいないといっても、周囲が無人であれば、かえって落ち着かないわけで。
職人さんたちに会釈をしながらあちこちを見て回ります。監視カメラに写っているんでしょうね。

と、少々心配だった雲行きが、案の定細かい雨を・・・いえ、結構大粒の雨になりました・・・降らせ始めました。
私は駐輪場の軒下に逃げ込んで、しばしの雨宿り。
ですがこの人たちは作業の手を休めません。

今日のうちにやってしまわねばならない段取りもあるのでしょう。
先ほど書いたように休日だからできる作業もあるわけで・・・・。

この場所以外にも何人もの職人さんが働いています。
大昔、エンジン付きの草刈り機をもってある病院の草を刈るバイトをしたことがあります。
建物の周囲や中庭が相当広い病院でしたから、ずいぶんと働きでがありました。
初めのうちは、草刈り機をもっても、「なんだ。こんなに軽いんなら、大したことはない・・」などと思っているのですが。
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- 2014/07/07(月) 00:04:23|
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みなさんは海外に行かれたことが度々おありだと思います。
そして海外の様々なものを見てこられているんだと思います。
日本にいても、こういう機会に、実物を見る機会があるということはうれしいことです。
ですが、背景の建物も違いますし、町の空気の匂いも違うことでしょう。ダンスを取り巻く人々の熱気もまた異なることでしょう。
私も海外に行っていろいろ見てきたいものです。

上着の前をはだけて、こうした表現をするのですから当然服の裏地もデザインも考慮に入っているんでしょうね。
江戸時代の江戸の町人たちが・・・贅沢を禁止されてのことではあるけれど・・・服の裏地の色や柄に心を砕いておしゃれ、粋を誇示したのを思い出します。

「歯の浮くような」歌詞であっても、受け入れてしまうだろうなあと・・・・。

ステップが身についています。
習ったものではないという感じです。

中南米のサッカー選手がヒールキックをするときの自然さとでもいいましょうか。
これですよ、これ!!

すぐ横に女性が立っているのが当然のような雰囲気。

日本に来て偶然に出会ったダンサーとギタリスト。互いにエールを送ります。
- 2014/07/06(日) 00:00:45|
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この決めポーズを日本男性がして「様になる」でしょうか。
どうやら・・・少なくとも私にとっては・・・無理だろうし、気恥かしいものになってしまうだろうと思いました。

地肌に直接シャツを着ることは、日本人でもする人がいますが、こういう風にはいかないように思いました。
ポーズは真似られてもこの表情はできにくいんじゃないでしょうか。

曲も、振り付けも、・・・歌は歌詞が分かりませんので、何とも言えませんが・・・・こういう表情と姿態を見せるためにうってつけだなあと感じました。
そして客席の特定の女性の目を見つめて踊れるんじゃないかと。

女性の写真を撮るときに感じます。
写真を通じて表現する情念というか、ドラマというか、それが欧米のそれとは違うなあと。
で、絵がちまっとしてしまうのかな・・と。

無論、あちらがよくて、こちらがだめだなんて言うつもりはないのです。
ですが、自分の内容のつかみ方・・・つまりは対象をどうつかむかですが・・・も表現の大胆さも、私の場合は弱いなあとは思います。

幾人かの方が写真の相手をしてやろうといってくれていますので、そういう点をもっと意識して工夫してみたいなあと思っています。・・・・そう、思ってはいるんですがねぇ。
こうはいかないでしょう?!

踊り手を見てバックの歌手もギタリストも、ぐっと生き生きしてきました。
ダンサーと刺激し合って、響きあいながら、フラメンコを作っているようです。

うどんの汁にはネギを刻んでいれる!! 見たいなものでしょうか。
・・・何を言っているんでしょう?!?
撮っていて、何を撮りたいかが見えてくるような歌とダンスです。
- 2014/07/05(土) 00:00:31|
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女性ファンがたくさんいるようで、熱心に声をかける人たちがいました。
「飛び散る汗」を撮りたかったのですが、レンズの長さが足りません。
私の足元には舞台に上がる階段が舞台をぐるり取り囲んでいます。
そこに腰をおろして食べたり飲んだりしているお客さんのグループがありました。別に何も気にしないで、よい場所を見つけた、ゆっくり楽しもうという風です。
そこまで入り込めるなら、また違った写真を撮れるだろうにと思いますが、そこは客席じゃないでしょ?!大胆な人たちです。

この男性ダンサーには舞台後に「写真を撮らせてもらいました。ブログへの掲載もいいですか?」と尋ねたのですが、どうぞどうぞ、いい写真が撮れたら、ぜひくださいとのことでした。
が、結果はご覧の通り。残念ながら・・・というところです。

それにしても、エネルギッシュですね。

こうしたダンスには男性の色気というか、セックスアピールがありますね。
そうはいっても私自身にはピンと来ていないのかもしれませんが。

というのはスペインのダンサーが表現する、というか発する男性のセックスアピールと、日本人ダンサーのそれとはかなり違って感じられました。
スペインの文化というフィルターにかかると、日本人男性の色っぽさはちょっと表現しにくいのかもしれません。

この方の知人でスペインのフラメンコダンサーが、たまたま1カ月ほど前に来日していて、この企画を聞いて東京から駆けつけてくれたそうです。
この方はいろいろな宴会二次会」で、場を盛り上げるのが役目なのだそうです。

背後の歌い手とギタリストは、このダンサーとは初対面のように見えたのですが、同胞の飛び入りにぐっと盛り上がっています。

シャツの襟首の開け方が、すでに違うなあと感じました。
男意気というか男伊達というか、それがスペイン風なんですねぇ。・・・いえ私はスペインに行ったことはないのですが・・・・江戸風でも京風でも浪速風でもないように思いました。
そして「男ぶり」を表現する文化の違いというようなものを感じました。
- 2014/07/04(金) 00:01:04|
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フラメンコの続きです。
男性のダンサーが登場します。
エネルギーを内に凝らしているような、外見上は予想外に静かな登場です。

ポーズを決めますが、激しい動きはまだありません。
歌もギターも押し殺したようなエネルギーを感じます。

それにしても衣装が決まっていますね。
ダンスでは女性が露出を多くすればするほど、男性は肌を包みます。
アイスダンスなどなぜ女性がああしたコスチュームでないといけないのかと、不思議に思います。
ジェンダー論のまな板に乗せる人はいないのでしょうか。

切れのある動きが出てきました。
ダ、ダン、ダンッ という強いステップが、次第に上半身へと伝播していくようです。

しかし、総じて女性の振りより動きは少ないように見えます。
たまたま選んだ曲によるのでしょうか。

その少ない動きに強い力が表現されているようで、やはり男性性が如実に出ています。

瞬間的な動きの切れは見事です。
しかし、私のようにフラメンコの文法や語彙を理解しないと、多くを見逃すように思えました。



- 2014/07/03(木) 00:02:46|
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寺院建築などを見ると奥行きの深い室内に以下のして光と風(空気の流れ)を取り込むかが、さまざまに工夫されているということがわかります。
暗ければ人工照明で照らせばいいという・・・・技術的にそういう条件がなかったからですが・・・ことではなくて、光をよく研究しています。

この場所の窓に障子がはまっていればまた光のニュアンスが違ったでしょう。

私が好きな季節は夏なんですが、エアコンの冷たい空気は大嫌いです。
理由はいろいろありますが、空気から取り出した熱を室外に追い出して、自分が涼しければ外がどうなろうと知ったことではないという精神もまた嫌いなのです。
街を寄ってたかって暖めておいて、「暑いのは我慢がならない。」というのはどうなんでしょうか。

夏の街をリクルートスーツで駆け回っている「シュウカツ」中の学生が可哀そうです。
クールビズとかなんとかいっても雇う側が「服装に人物が現れる」とかなんというのは弱い者いじめとしか思えません。
季節に応じ環境に応じた服装を選ぶことができる力を企業は評価しません。我慢し、自己を殺して企業に忠実・従順である方を企業は採ります。学生がリクルートスーツを脱ぐことなんてできる話ではありません。
学生は弱い立場です。

ご覧のように服を着替えてくれています。
そういえば、以前、プロのモデルを目指している人を撮らせてもらったときに3パターンの服で撮りました。その時は、着替えるのは私の車の中でした。車はセダンで窓にカーテンもなかったのです。私が見張り番をしていましたが、「仕事の時はこんなものです。」とあっけらかんとしていました。
私が大昔映画のエキストラをしたときにはかつらがわの土手の下にゴザを敷いて、そこでパンツ一つになって官軍から新撰組へと変身しました。見物人が撮影の様子を見ている場所でした。
こういう世界ではどうも人権感覚が違うのかもしれません。自民党都議団といい勝負ですね。

人物写真を撮っていると、そこには私の女性観・男性観、そして人間観が出てしまいます。そこが怖いところです。
特に女性を撮るときにそれは思います。




- 2014/07/02(水) 00:03:09|
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