この日は「春」のような一日。晴れて暖かく風も穏やかで。
1月2月の手作り市は寒いもの。出展者の皆さん覚悟しているんですが、暖かいと体が楽でいいです。
笑顔にもなります。

手作り市に出てこられるモノづくりの人の中には、「採算度外視」的な人がまま見られます。
関節が動く木製ロボットを作っておられる方もそうですが、この寄木の方もどちらかというとそういう傾向がありそうです。
材料費はともかく「労賃」にあたる部分はちゃんと相応に計算に入っているのかなとちょっと心配。

「作るのは大変でしょと言われるんですが、その大変なところが面白くて、やってて楽しいところなんですね。」
どういう道でも、そういう事なんだろうと思います。 簡単にできたら打ち込む面白味がないし達成した喜びも薄いわけで・・・。
楽器の演奏、絵を描いたり彫刻をしたりするのも同じでしょう。

作られたものを前に話が弾むのは、その政策の工程に工夫や忍耐強い仕込みがあるからでしょう。
材料一つ取ったってこれはというものを手に入れるには苦労話の二つや、三つはあるものです。

私だって、実は愛機のα900で撮ればこういう色にはならないんですけどと・・・いやそれは話が違うか。
よその工房で廃材になっても、見方を変えて「こうなるかな、ああなるかな」と生かせば色々に生きてくるもののようです。
数珠の玉をくりぬいた後の木を、捨てられるはずのものを、「これは・・・・」と初めから計画したようなものに仕上げています。
そういうところもこうしたモノづくりの醍醐味ですね。

この方は写真も撮っておられるそうで猫の写真がファイルに入れられた置かれていました。
これは猫好きはたまらんでしょうという写真ばかりです。
猫の写真でも、遊ぶ、楽しむ精神が溢れています。 この寄せ木の作品にもそれが横溢しているように思いました。

お話を伺っているときに、この人の笑顔を見て、私の脳はり何度シャッターを切ったことでしょう。
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- 2022/02/16(水) 00:00:05|
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意外にも竹を編んでいくのにかなり手指の力が必要なようです。
私の持っていた職人さんおイメージを壊してくれた七宝の若い女性職人さんがいます。彫金もされるのですが、糸鋸を引くときなど手の甲には筋が立ちます。小柄のその人の手指は一見か細いのですが、確かな力を持つ指なのです。
この方の人差し指の付け根の関節などの太さや筋肉の盛り上がりは素晴らしいものです。

こうして竹の素材に触れ続けているのですから、肌も荒れるだろうなと思うと、それがまた意外にもと言ったら失礼なのですが、きれいなのです。
それでも作業が続くと荒れるし、 籤の面取りをするまでは籤のエッジで切ったり、「とげ(削げ)」をさしたりすることが何度もあるんだそうです。

竹細工はこうして汲む作業の前の、素材作りに手間暇がかかります。し上げるものを意識して素材作りをするわけです。
工業製品ではない自然の竹素材ですから微妙な条件の違いがありますし、、竹の産地などでも肉の厚さや撓りやすさ≒折れやすさなども違う訳です。

職人さんの表情は手指や姿勢にも勿論出るわけですが、やはり目や口元にも出ます。
マスクをされているとそこがやはり捉えにくいのです。
当分マスクは外していただけない、そこが辛いですねぇ。

D850の白黒写真ですが、ソニーとはずいぶん違いますね。 年代の違いもあるのでしょうか。
やはり会社の違いでしょうねぇ。 フジとも随分違います。 キヤノンとも違います。
着物の柄の出方には可能性を感じますが、どうも扱いが難しそうな気がします。

ニコンはキヤノンと並ぶ二大メーカを張ってきたかなり普及したメーカーなんですが、カラーも白黒も何か独特な感じですね。
現時点では「困ったなあ。」です。
二大メーカーだと言ってもデジタルの歴史はそれぞれ大して長くはないのだし、ソニーなどの映像機器メーカの方が先行者ですしね。 筐体は作ってきたし、レンズも作ってきたけれど、画像づくりは間接的にしかしてこなかったわけで、あまりアドバンテージがあったわけでもないし。
ソニーやフジの方がしっくりきますね。果たして、私に使いこなせるでしょうか。
さすが〔高級機」ですから微調整をする機能がいろいろあります。
何とか研究してみたいと思います。
そのためには一杯、撮らせていただかないといけません。 何しろ私は「人を撮る」のですから。

早く、いわゆる「モデル撮り」もしたいものです。
それはいつ実現しますか。 心許ない限りです。
今回はこれが良かったでしょうか。
- 2022/01/18(火) 00:00:02|
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大変申し訳ない話なのですが、カメラ・テスト+継続的な修練を兼ねています。
そして、何より仏師・高橋さんの写真と並べて展示できる写真を撮りたいということが本音です。
今年の京都ファインダー倶楽部の写真展に出したい写真です。
ご協力をいただきました。
うれしいですねぇ。
こういう場所でいい写真が撮れるかどうか難し所ですが。

じゃあ、どうして撮るんだと言われると、「それはね。」と多少動揺しながら言い訳をしなくてはいけません。
「それはね。いい写真は偶然にしか撮れないから。」というしかないのです。
その偶然は単線の時間軸の上で、別の条件と突然ばったりと遭遇して・・・というだけの「偶然」じゃなくて多元多次方程式の解を求めるようなものです。その「多」がどれくらい数えられるかというところは究明しなくてはいけませんね。

「偶然」なんだからカメラを三脚に据え付けて機械仕掛けでシャッターボタンを押し続ければいいかというと・・・・いいのかもしれませんが・・・・そう言う訳ではないのではないのかもしれないというところが、頼みの綱です。

で、こうして撮らせていただくときには、一応、自分としては、主観としては、「何か意識して」撮ろうと思う訳です。
それがなかなか大したことではないので結局、何ら変わらないのです。それでも「偶然」の「棒」に出くわすかもしれないのです。
無論、棒は被写体になってくださる方の事ではなくて、「いい写真」の事なんですが。

こういう事ですから「作家だ」「プロだ」というレベルからは相当遠いところにいるんだなあと思います、私は。

こういう職人の指を持つ人を撮り続けたいですね。
- 2022/01/17(月) 00:00:04|
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全国にはいくつの寺社があるでしょうか。
本寺末寺、本社末社・・・
文化庁によれば仏教系寺院は全国で77,206ケ寺だそうです。人口10万人あたり60.82寺だそうで、寺院数が最も多いのは滋賀県で人口10万人あたり227.39寺、。2位は福井県で215.35寺、3位は島根県(189.57寺)だそうです。寺院が無茶苦茶多そうな京都は全国13位だそうです。
これは人口10万人当たりですから絶対数で言えば愛知県がトップの4,589寺。それに対して京都は3,076ケ寺でかなり開きがあります。

多分、京都は権力とのつながりで本寺だとか総本山だとかいう大規模なものは多いんでしょう。
私の住まいの周囲300メートル以内には3ケ寺有ります。神社も1社。1キロ以内にはどうでしょうね。
等持院、竜安寺、仁和寺、妙心寺、金閣寺以外にも寺員、塔頭がたくさんありますから全国13位というのはちょっと意外でした。

この方の仕事はそうした寺社に使われている各種の幕の刺繍の修理です。
地方の寺院からも仕事が入り、それぞれが高価で、中にはとても長いこと使われていたものがありますから、そこに施されている仕事はかつての職人さんの、しかも幾度も補修されていれば幾世代もの人たちの仕事を受けたものになります。

補修しながら技術を学ぶと言います。
時にはガラスケースの中でしか見られないものを直接触るだけでなく糸をほどき、作業をさかのぼって体験するのですから、貴重な仕事です。
その当該の寺院は勿論その檀家さん、信者さんの思いがこもったものもたくさんあると思います。
昔何かあって寺院を新たに建てたり再興したりした時に村や町の人々が皆よってその寄進によって遠い京都から求めたものがあったかもしれません。
それが例えば寛政年間だったり、あるはさらに昔のモノだったりしたら、それだけにその寺院にかかわる人々の思いがこもるでしょうね。
豪華だというのもその村、町の人の誇りに繋がっているかもしれません。
今、金糸を縫い付けていますが本金だそうです。

ただまあ、私個人の考えとしては寺社が豪勢だということはそれに反比例して庶民は貧しさの底にあったんだろうし、あるのだろうなあと思います。
京都の有名寺社を見学するときにその豪華さや秘匿性に感激してやたらと喜ぶ人がいます。が、どうも私はそういう人たちに共感する感性は私にはないようです。
そういうものを作るための富が吸い上げられる仕組み、そしてその富を享受する階層の人々について私はシンパシーを持つことを良しとしないからです。

工芸の粋を集め、職人たちの高度な技と熱意と汗とを結集したものは当時の権力者の力なくして実現しなかったわけですから、そういうことをただ忌避しても仕方ないし、そこにあるものは確かに私たちの祖先の精華だと思います。ですからいろいろ見学したいという気持ちはあるし、大切に継承しなくてはならないなあと思います。ですが、それがことに京都などでは民衆のものではなかったという事、民衆の収奪の上に成り立ってきたことを忘れることはしてはいけないことだと思います。
それにしても坊さんたちはなぜあんなに豪勢な衣に身を包みたがるのでしょうね。高位高僧になればなるほど。
人には欲を絶てとか慎めというのに。

京都の大伽藍を言見るときの感想と地方の村社や末寺を見ると感慨とは大きく異なります。
いわゆる「コロナ禍」にあって寺院や坊さんは何をしていたのでしょうね。
「疫病退散」と書いたり口にしたからと言って何も解決しないのにね。
そう言う思いを込めて人々が投げ入れた賽銭の全てをこのコロナ禍で生活の基盤を壊した人々に、あるいは医療関係者に施業したという寺社や僧侶の話を寡聞にして聞きません。(きっとあるのだと思います、そういう徳のある行為をする寺院や僧が。ただあまり街頭に出てこないのですね。)
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- 2021/12/18(土) 00:00:02|
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金彩は最後の過程です。ですから失敗は許されません。
松の絵に松の葉を描き入れています。

三角錐状に作られたものに金を混ぜたものが入っていて筒金から押し出しながら描いていきます。
糊で伏せて白抜きになっている線に重ねていくのですが、全く迷いなくスッスッと描いていくのは、長い経験故に当然と言えば当然のですが。
いちいち逡巡しているようでは線が死んでしまいますからね。

それでも長い工程を辿っていよいよ最後の仕上げだと思えば、私ならビビってしまいます。まあ、それも慣れなのでしょう。
親指と人差し指とではさんで、ちょうどケーキにクリームを絞り出してデコレートするときのように描いていくのですが、中の絵の具の量は次第に変化するんですしね・・・力加減が難しいでしょう。 線の太さや盛り上がりは一様でないといけないし、かすれても揺らいでもいけないわけです。

このところ小学生の見学が多かったようですが今日は静かです。
「修学旅行」も、一段落したのでしょうか。

ここは白色の蛍光灯に電灯色の蛍光灯などが混じりあっていますから、色調整がとても厄介です。
人間の目も当然そういう影響を受けているはずなのですが、よくできているんですね。
それがカメラのホワイトバランスを撮る段になって痛感します。

最近のカメラはその点でも格段と進歩しているようですが、私はいつも苦労しないといけません。
ちゃんと基礎基本を学んでいないバチが当たっています。

今回はたまたま布の色がバッチリと決まっています。
多分。
- 2021/12/16(木) 00:00:05|
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