手指で作ったものは手指に優しい。そう思います。
その手指の感覚というか感性が凡人に比べてはるかに繊細度を増した職人の手指が作り出すのもが我々にある種の「快」をくれるのです。
それが「手作り」であることの価値だと思います。

今やみくもに「手作り」をうたう商品がありますが、どうもただ手作業で作れば「手作りに間違いはないでしょ?」みたいなものが散見される。
でもその手作りの質の高さ・技能の高さが問題ですよね。

嘘はついていないが意図的にミスリードさせる「嘘」が氾濫する現代。
CMなどはその最たるもの。 自公政権や官僚の国会答弁もその典型。

そういう社会だから、「手作り」とか「オンリーワン」など何か肌感覚として確からしいものが求められるのかもしれない。
そこにさえ「嘘」が忍び込むやるせなさ。
職人の手仕事に嘘はない。

何百何千ものぐい飲みを作る。
そのうちのただ一つを作るときのこの表情です。

だから私はこれを撮りたくなるのですね。


- 2018/03/18(日) 00:00:33|
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轆轤で作った器をさらに形を整えます。

京都の取引業者の要求は「同じ寸法」かどうかに厳しいのだそうです。
例えば五脚で一組だとすれば、その各々の大きさにばらつきがあれば、卓上に並んだ時に、何かちぐはぐに感じるかもしれませんね。
でもこれらの茶器は一つずつで使われるものですから、「違いがあってもいいのになあ。」

無造作に、雑に作って形が不ぞろいでもいいという意味ではなくて、手で一つ一つ作るのだから、そこに味になる違いがあっても良いのではないかという事なのですね。
そうでなければすっかり機械で作ればいいわけですから。

「機械で作ると肉厚になるんです。それは作るときにかかる力に対して一定の強度が必要になるので。で、いくらか重くなるのです。」
「手作りの場合は薄く作れますし、作るときの条件、例えば空気の乾燥具合とか土の含有水分率とかで微妙に指先の加減を変えるのです。それが機械にはできない。」
「機械で作られたものは重くなります。」

陶芸に興味のある婦人がずいぶん細かな質問をされます。
それに懇切に答えていきます。

京都には焼き物に適した土がないのです。で、各地から集めるわけです。都ですから器に対する需要はふんだんにあるわけですし、また、そこから土の購買力もあるわけですね。で、信楽とか備前のように地元に産する土の焼き方・火の具合で表現する焼き物ではなくて、焼いたものに色付けをする文化になったのです。
絵師もたくさんいますし、華やかな絵柄や色遣い、金彩のような豪華さも支配層、富裕層に好まれます。それに絵柄についての教養を持つ人も多いわけですね。
都人は、私のように「四君子」などと言われても何のことやらわからないという田舎者とは違うのですね。

手前に写っているのがるのがこの方のおじいさんの始めた絵柄なんだそうです。

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- 2017/05/03(水) 00:00:19|
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付けているレンズが50ミリですので、自分からかなり寄らないといけません。
昔お祭りの夜店の輪投げなどで、店のおじさんが、棒で地面に線を描いて、「ここから入っちゃだめ!」と言っていましたが・・。
こういう場所にも「線」があるわけで、足はその線の外にあっても体はぐっと乗り出して・・・・、「これならいいよねぇ?!」

職人さんによっては「いいですよ。もっと入ってくれて。」とか、「テーブルを動かしましょうか?」などと言ってくれる方がいます。
私が座り込んだり仰向けに寝転がって撮るのを見かねてのことでしょう。
少しだけ口が広かったようです。端を切りとります。

そして口の当たるところですからなお一層念入りに平滑にしていきます。
ふちの厚みをつぶさないように、かつ滑らかに・・・・。
指先の力のバランスをとる神経の集中が口元に出ます。

内側のアールは「型」があって、その板を当てながら形成していきます。



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- 2017/04/23(日) 00:00:24|
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世の中には、実用器としての焼き物もあればオブジェとしての陶芸作品もあります。
この方は清水焼の職人さんです。
トンボで口の広さを確認しています。
これで「同じもの」になるようにしているわけですが、それまでの手びねりや指先の形成でほぼ予期した大きさ形にはなっています。

「ほぼ」の誤差が素人とは大きく違う職人の領域の基準だということがしばらく仕事を見ていれば感じられます。
一つが・・・・この段階ではということですが・・・・出来上がりました。

ろくろを回して土をひねりあげていきますが、目でその形を追っているというのではなくて、掌や指先の感触で土の形の変化を見ているようです。
今日の土は「少し水分が多いなあ。」とのことです。
その日の土に合わせて作業をしなくてはなりません。ちょっと油断すると「広がっちゃうからね。」

それにこの後の乾燥や焼き締まりも計算しながらの作業だと思います。
「一日に・・・・・・そう、120から130個くらいかなあ。」

- 2017/04/22(土) 00:00:36|
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何故なんでしょうねぇ。
私が時々見せていただくあちこちの写真展で人物を対象とした作品はごくごくわずかしか見ることができません。
もし、あったとしても舞妓・芸子の写真とかプロのモデルを写したものです。
なぜこうも人が撮られないんでしょうか? 不思議でなりません。
こんなに魅力的な被写体なのに・・・・・どうしてでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
腰をかがめたくらいでは撮れない角度に『絵』がありそうなとき、どうするか。
皆さん色々工夫されるんでしょうね。
カメラにもそういう時に対応できるものがありますね。
私は寝ころびます。

足腰の強う時には相当低く構えられたのですが、今では無理ですね。
ですから腹ばいになったり仰向けになってしまいます。

そのほうが安定してしっかりと対象を見られるように思います。
そして望遠系のレンズで撮るよりも、50ミリで自分自身が寄る方がいいように感じています。
無論、135とか200とかで撮ることにも挑戦しますが。
遠くから撮るという事は脚立とかがない限り「見る」角度に制約が大きくなりますから。

そして、ある意味でいくらか対象に対しても「迫る」感を与えます。
そしてそこに撮る側と撮られる側との間に濃密さを作っていきます。
「つい顔を作っちゃうなあ。」などと・・・・この方も…言われますが、職人さんが一番作りたい「顔」は集中し緊張感のある良い仕事動作です。そこが肝心なところです。
表面的な言葉では「いい男にとってや。」と言われますが、職人としての気概は手指の動きとか道具の走りの「いい男ぶり、女ぶり」です。
単純な「自然な表情がいい」派の人たちと、私の考え方の違う点かもしれません。
いいピッチャーにしか好打者のいいバッティングは引き出せない、という事だろうと思います。
そういう意味でこちらが「いい撮り手」たらんとすることが重要なことだなあと感じています。

撮られる側の人は、撮る側の押したり引いたりによって「引いたり押したり」してくるのですから。
そのことでその人の持つ一定の高揚の中でしか生じてこない良質なものを出してくれるのではないかと思います。
見たままありのままに撮るというのは、私の場合はちょっと違うなあと思います。
普段の路地などに生活する人々の表情を撮るときなどは、また違ってきますよね。

人を撮る=自然な表情を撮るのがベスト という式の外にもよい写真はあると思います。

私は半分観光用の公開実演でも職人さんに対して、例え短時間でも本気になっていただけるような関わり方をしたいなあ、そういう姿勢で撮りたいなあと・・・・思うこのごろです。
- 2017/04/15(土) 00:00:37|
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