人に出会えるということはうれしいことです。
私たち京都ファイーンダ―クラブは京都文化博物館の5階で写真展をしているわけですが、そのお隣は毎年の如く「六轡会篆刻作品展」が開かれています。こちらは今回でなんと37回目だそうです。
私はこの世界についてもとんと知識のない者なので、ただ見たままに「あ、いいなあ。」と思って会場に一歩を踏み入れました。
そこでお話を聞かせていただいたのがこの方、小 朴圃さんです。

たくさんのお弟子さんや関係者の方と、間断なくお話しし、交流されていますので、なかなかそこに食い込むことが難しかったので、度々様子を伺っていて、ついにその機会を得ました。

というのもお話の様子やその姿に魅力を感じたからであり、やはり撮らせていただきたいと思ったからです。

「写真は苦手で・・・。」と固辞されますので、あまり無理をしないまま書や篆刻について、あるいは中国での「文人」の在り様などについて聞かせていただきました。
拙ブログに以前書きましたように、私はごく最近になって中国制作の・・・・と言っても国営ではありませんが・・・・スリーキングダム、つまりは三国志の長編映画を見ました。
その中で漢の相国、曹操が漢詩をよくし、個展にも通じた教養人だったと知りました。

そうしたことから文人についていくらかの関心を持っていたところ、この方の今回の書は曹操の文を書いたものも含まれていて、何か一層の機縁を感じたわけです。
その翌日には、なんと私が少し遅れて会場に着く前に、どうやらこちらの開場を一瞥していただいたようで」あなたの写真を見た。とても良かった。」と言っていただいて、小氏とともに出品されている真鍋井蛙氏を誘って、わざわざ私の写真を再度見に来てくれました。
そこでお二人と私の話が弾み、ついにカメラを手にすることができたというわけです。

作品を生み出す作家として、私の写真の中の作家たちと深く通じるものをお感じになったお二人は、とても打ち解けてお話をしてくださるようになりました。

写真が苦手だという市の気持ちから、あまり多くを撮ることはできませんでしたが、終始楽しい撮影になりました。
普段思っていても口にしにくいこともお二人とはお話ができて実に楽しい一時でした。
写真しているからこそ、又新たに開くことのできた素敵な人たちとの縁です。
- 2019/08/25(日) 00:00:05|
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明日は清水寺経堂・写真展「音楽・人・人生」の搬入日です。
11:00から搬入しますが、ごく簡単な設置で終るはずですが、なかなかどうしてということになりそうな気配です。
私のようなものとしては「清水の舞台」から飛び降りるような心境で臨むことになるわけですが、こういう経験も得難いわけですから、大いに楽しもうと思います。
ただ、明日は一日中雨が降るようです。
そんなことをぶつぶつ言っている私のような小人からすると、この橋本関雪の白沙村荘で作品展をするなんて言うのは大変なことだあと思うのですが、そこが注目の若手、新進気鋭のこの書家にとってみれば登っていく高みへの一踊り場でしかないのでしょう。

池に浮かべられたこの作品は50メートルの和紙に書かれたものの一部なんだそうです。
多分期間中にいろいろと手直しされていくだろうと思います。
今度は布に書いてみようかなんておっしゃってもいました。
浮かべ方というか沈め方もどんどん改善されていくのではないかと思います。何しろ期間が一か月ですから。

私などはすぐに下世話な関心からここの美術館で個展をやると一体どれほどの経費がかかるんだろうと思うわけです。
多分彼の作品は・・・今日は価格が付けてなかったですが・・・高額で買い取られては行くのだろうと思いますが。
清水寺での個展のすぐ後の7,8月に「同じ作品で個展をしないか。会場費は半額にするけど、どうだ?」と、写真愛好家には比較的知られるあるギャラリーさんからお誘いをいただきました。
が、私などは今度の写真展での出費の影響が大きく、これからしばらくじっとしていないといけません。たとえ半額と言われてもできないのです。

そこが上田さんの様に作家として駆けあがっていこうとする人と、私のように登ってもいないのに転げ落ちていくものとの違いでしょうね。

上田さんとは倶楽部の写真展、「文人光画展」の開催中や「反省会」の時などに大いに語り合います。
年齢はずいぶん違いますが結構気が合います。
とても自由で、囚われない発想をされますし、実行力にも優れています。学ぶところ大です。

これは「V」サインをしているのでも「ピースサイン」をして写真を撮っているのでもなくて、お客さんとの会話の中で「2」を示しているのです。
上田さんが若い学生などからも年配の女性たちにも人気がある要因の一つはこの表情の豊かさだろうと私は思っています。
この点も私には欠けている部分だろうと思います。


今年のグループ展にはどんな作品を出してくるのか大いに興味あるところです。
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- 2019/06/14(金) 00:00:09|
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この日、私はおニューの自転車で銀閣寺付近まで出かけました。白沙村荘では書家の上田 普氏の作品展に行くためでした。
作品展は「墨韻生動」と命名されています。6月1日から30日までの長丁場です。
白沙村荘というのは「日本画家橋本関雪と、彼が大地に描いた理想郷」だと紹介されています。

入館料が素直に言っていささか高額なのです。それだけの価値があると考えるかどうかはその人の教養次第になるんでしょうか。
自分で言って自分に唾が返るような言い方でした。少なくとも私には「高すぎる」という感じです。

しかし、ここの評価はとても高いし、ここで個展をするというのはなかなかハードルが高いと思います。
「墨韻生動」というにふさわしい作品が並んでいます。
墨痕と言いますか墨跡と言いますか、その描く形にも華がありますが、何より注目したいのは、その墨痕の内部が胎動しているという点です。

上田さんのやることですからギャラリー会場という建物の中に閉じこもらないで外にあふれる作品があるのだろうとは予想していましたが予想は遥かに超えられていました。
白沙村荘の主人だった橋本関雪に対してリスペクトしながらも、その前でたじろがず、怖じず作品を展開する姿勢は・・・僭越ながら・・・天晴と思いました。

撮影の制限があって茶室と作品の響き合いを撮ることができなかったのは残念でした。
今どきの若手作家らしく「僕は撮ってもらってもいいんですが。そうして却ってSNSなどで広く知っていただけたらそのほうがありがたい・・・。」と。

フランスなど、海外に積極的に出て活動試作品を広く公開しています。
彼は私が参加させてもらっている「京都ファインダー倶楽部」のメンバーでもあり、ですから写真展にも独自の切り口の作品を出しています。

ジャズバンドにも参加するマルチタレントで、そのジャズ演奏ではハーモニカをやっています。
メガネは竹製である竹工芸の作家さんの作品です。
- 2019/06/13(木) 00:00:24|
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音楽を流して、その曲逃れを感じ、そして曲の終わりと書く終わりをシンクロさせるというパフォーマンスを見せてくれました。

私自身はこういうことが書にとって本質的に良いことかどうか判断できません。
曲想と書く内容とがすでにマッチしていて、その曲のイメージを受け止めて書くということは、あるいはあり得ると思います。
歌詞と楽曲がマッチして「声楽曲」ができる。その時歌詞の音韻やフレーズは音の高低やリズムや強弱や音色とマッチすることは是非必要だろうと思います。
が、それを書と同調させるとどうなんでしょうね。

でもそういう切り口で、「書く」を高めていこうという挑戦はあってもいいのかなと思います。
そういうことを試してもいない旧来の枠組みで初めから排除しては、多くの人とつながる表現に革新していく道をあらかじめ閉じてしまうことになりかねません。

写真でもデジタルになって様々な加工をするものが増えてきました。
先日訪ねた写真展でも少なくない作品が、「撮って出し」ではありませんでした。
私自身はどちらかと言えば否定的です。それをすることでよい作品になっていると感じられるものはそう多くはなかったと思います。
それは私の評価ですから、だから「そもそもだめだ」などとは決めつけないで、大いにやってみたらいいし、そういうことについての議論は大いにされたらいいと思います。

話は変わりますが、ちょうどこのギャラリーのスタッフさんも記録のための写真撮影をされていました。
その人とはときどきお話をさせてもらって顔なじみになっていますので、私が初めから床に這いつくばり、初夏に迫って撮っても、とがめられないだろうという安心感があるのです。そうでなければ、こうも図々しく撮影はしにくいです。

7年半写真を撮ってきて「この人は写真を撮る人だ」と知ってくれる人が、多少ともできてきたおかげです。

そういう風にしてtもられリることはとても大事な要素になります。
どこにいても私がカメラを持っていてこれはという人を見つけると撮りたがるということを周囲の人が認知していてくれると、初めてお会いした人に「撮らせてもらえませんか。」とお願いした時に、周囲にいる人の反応を見て、あまり怪しまれずに済むというわけです。
第3次5カ年計画のためには、こういうことも大切だなあと感じている今日この頃です。

- 2018/09/24(月) 00:00:07|
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このところよく書家の個展を目にすることがあります。
ことに男性、それも若い方の個展にはある傾向を見ます。
それは見せ方・演出の工夫、旧来の書とは違うぞアピールです。

この方の個展にもそれが感じられました。
私は写真展の「見せ方」の工夫の無さについていささか忸怩たる思いがありますので、そこに一層関心を持ちます。

そこにはプロとアマの意識の違いという面もあって、一概に言えないようにも思うのですが、キャプションを含めての見せ方が、写真の個展・グループ展とも、あまりに芸がないなあと常々感じているのです。
グループ展などでのキャプションの凡庸なことは目を覆いたくなるほどです。
「凛として」「静寂」などどこの会場でも必ず一つや二つはお目にかかる単語です。
「夕暮れ」だとか「祭りの男たち」など、見ればわかる・・・と突っ込みたくなります。
それだけ、そこに何を見たのか、何を主張したいのか、掘り下げたものがないことが一目瞭然です。

内容的なことについては、書の展示についても同様に感じることが少なくありません。 書は文字、言葉、文章を書きますから、そこに「意味」とは切り離すことのできない特殊性があります。 その内容が惰性的で凡庸なことが少なくないし、また一方で「今ウケ(インスタ映えと同じかな)」を狙う下心ふんぷんのものなどが散見されます。
が、「見てもらいたい」「関心を持てもらいたい」「私の工夫を伝えたい」という情熱は強く感じます。

写真の世界でも若手にはそういう気配が、やはり見られます。
それぞれの時代の若者の共通性とだけとは言えない、今の若者の持つある種の空気を感じます。

私自身は、それを単純に肯定できない気分を抱えるのですが、しかし、こういう格闘や、模索を通じてしか次の世界は切り開けないだろうなあと思ってもいるので、敬意を払いつつ注視する姿勢です。

私が「描くところ撮らせてもらいたい。」とお願いすると、既に今日の練習は終えたところで、ライブ本番は明日以降という予定であったにもかかわらず、「いいですよ。ぜひ撮ってください。」と、改めて紙を広げ、筆をとってくれました。
私は、すぐに床に腹ばいになって撮り始めました。

運筆のどこでシャッターを切るか、その瞬間を見つけることに神経を集中しました。
- 2018/09/23(日) 00:00:15|
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