「チャーハン」は「焼飯」と書く。
「焼かなきゃだめだ。」とはこの店の一番の先輩の言葉。 鍋をあおって飯を火であぶる。一粒一粒が分離するようにあぶる。
あおる力と飯をはね上げるタイミング。
調味料を入れていく。

「じゃ、ないだろ!!」
「はいっ」
順番に入れればいいってモノじゃない。 飯や野菜が熱せられていくタイミング、他の調味料のなじみ方・・・調和させて入れていくには「勘」を研ぎ澄まさねばならない。

「ほら、ここだろ?! みてろ。」と無言で示す。
文字にすると何だか声を荒げているようだが、少しもそういう風ではない。
けれど実に説得力がある。

あとは自分で仕上げていく。
大将は向こうに行ってしまった。

この時の気持ちを彼はずっと忘れないだろう。

そしてやがて彼に後輩ができ、彼が店長となり、若いものに教えていく。
その時私は彼を撮りたいと思うが、果たして私は足を運べるのだろうか。

若者が育つ姿は実にいいものだ。
続きを読む
- 2014/11/20(木) 00:03:37|
- 料理
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
「釣り人は、鮒に始まり鮒に終わる」と言うそうですが、中華料理は「チャーハンに始まりチャーハンに終わる。」と。
昼の最も忙しい時の山をようやく越えたころ、交代で昼食休憩に入ります。
先に休憩をとっていた先輩が帰ってくる頃です。
「今日は何にするんや?」 「・・・・・・で。」
賄い飯は自分で作るようです。
・・・・?!?! 自分で作る?! 彼が自分で作るんや!・・・・・これは撮らな。
ガサゴソガサゴソ・・・カメラがリュックからなかなか取り出せません。
ドキュメンタリ・ポートレートとしてはシャッターチャンスも命です。
とにかくシャッターを切らねば・・・。

チャンスはよかった、でも腕が、準備が、設定が・・・・・。 ピントはボールにぴったりと。

「・・・・はどれくらい? 勘ですか?」
「そうや、勘や。 その日によって飯の炊け方が違うやろ。野菜の状態も違う。だから測ったように入れてもだめなんだ。」

「材料は生きてるんやで。」
「いいこと言うなあ。大将!」と常連客が茶々を入れる。
自分の賄いを作るときにそのメニューの作り方を教えてもらえる。
彼は「○○さんの休憩時間、もうすぐ終わりですよね。」と待ちわびていたのは、先輩が時間延長しているのを訴えたわけでもなければ、お腹がすいて食事の時間を待ちわびているというだけのことではない。教えてもらえるその時間がもうすぐ来るからでもあるのだ。

大将はすぐ横に貼りついて教える。 この人は「そんなこともできんのか?!」という見下した空気が少しもないし、分かっていないものに「そなんこともできんのか」という「無理遍にゲンコツ」的なところも微塵もない。
しかし、この瞬間、空気がぴんと張っている。

大将は昔ラグビーをしていたというから、後輩を教えたりする呼吸が分かっているのかもlしれない。

先ほどの常連さんが、私がカメラを取り出して撮り始めると、さっと、メニューや紙ナプキンを取り除いてくれた。
何という親切な心遣いだろう。
この方の親切には、無論私に対するモノがあると思うが、しかし、その一方でこの二人の姿を「撮ってやってくれ」という気持ちがあったと思う。
「こんな風に真剣に聞いてくれる若いもんがいればなあ、・・・・。」とその方の言葉からそれが分かる。
- 2014/11/19(水) 00:00:01|
- 料理
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
今回個展をして、次に向かうテーマはと聞かれました。
あまり狭いテーマを持っては撮ってきてはいないし、これからも絞りすぎないようにしたいというのが正直な気持ちなのです。「素敵な人たち」をそれ以上絞るのもなんだか・・・・と思うからです。
が、いくつかの関心の内の一つが「京都に暮らす外国人」です。
「素敵な人たちと」がベースにあるのですが、ちょっと好奇心の方向性を意識してみようということです。

最近海外からの観光客が京都の街に多くなっています。中台の人に咥えて欧米の人が増えています。イスラム圏の方々も増えているようです。
そうした中で京都に暮らしの拠点、生業の拠点を選ぶ人がたくさんいるようです。
日本人と結婚してという人も少なくありません。
私の若い友人が最近結婚をしたのですが、相手はフランス人男性で、日本に在住しています。

最近飲む機会があると調子に乗って「1000人撮ったらパリで個展」などと大ぶろしきを広げていますが、何もはるばる飛行機で10数時間の旅をしなくても、日本に、京都にいる外国人との交流を深めて、写真を撮らせてもらい、また見てもらって印象を聞けばいいことだとも気付きました。

そこで、またいろいろ気付けば、私の写真も多少は成長するかもしれません。
パリはそれからでも遅くはないかと・・・・。

個展をしているときに、入り口のドアを少し開けて中を覗く刹那 「なんだ、人間か?!」という言葉を吐き捨てて踵をめぐらした人がいました。
写真に関心を持っても自分が撮っている分野にしか興味がないようです。
絵画を見に回っている人も写真には興味を示されない?
・・・・・。
写真は「モノクロでなくては・・・。」と私のカラー写真を見ておっしゃる人も。
「デジタルはなあ。」とつぶやく方も。
プリントを見てフィルムで撮った写真とデジタルで撮った写真を区別されたのではなくてカメラを見ての話です。・・・・この道40年のプロ写真家のかたが、「フィルムですか?」とおっしゃるプリントをみて「デジタルじゃだめだね。」なんてその方はおっしゃるんです・・・・。

こういう中「文化状況」の中で写真を撮って、時に公開するということの意味も考えたいなあと思っています。
今回の「この一枚」でしょうか。


「謝謝。」
「不客气。
「再来。」
- 2014/11/13(木) 00:03:27|
- 料理
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
どこの料理店に行っても厨房が気になります。無論、服务员、小姐が気にならないわけではありません。
ましてきれいな小姐がいれば。
食事の注文をして奥を見ると厨房が見えました。

この店の小姐は中国なまりの日本語を話します。
「どちらの方ですか?」
「台湾です。」とのこと。
そこで、この店はきっと台湾からの同族か地縁者が働いているのだろうと勝手な想像をしたのですが。
たまたま昼の休みで外に出てしまったもう一人の厨师は、やはり台湾人なのだそうですが、
今日撮影に応えてくれた人は大陸の東北・吉林省の人だということです。
私が3年前に行ったのは遼寧省瀋陽でしたから同じ東三省の仲間。
なんとなく親近感を持ちます。

日本語ができる小姐に「彼の写真を撮らせてもらいたいのですが、頼んでくれますか?」と尋ねますと、中国語で話しかけていました。
「彼は日本語ができない。」のだそうです。
でも吉林は東北地方ですから北京語と比較すると東北訛りがあるでしょうし、話しかける人が台湾人ですから、青森の人と鹿児島の人が話すようなことにならないのかと不思議です。
文字も簡体字と繁体字の違いがありますし。

私がどんな意図で写真を撮るのかというような細かな事情は通訳されていないようですが、とにかく写真を撮りたいらしから・・・というようなことです。
「你好!」

もう一人の、いつの間にか休憩に行ってしまった台湾人の調理師が、「いいよいいよ。奥に入って撮りなさい。」と声をかけてくれたので「邪魔になる場所は教えてくださいね。」と言いながら・・・・。

この店の中華鍋は両側に持つところがあります。珉珉では片手なべでした。
手首から肘までの筋肉が素晴らしく発達しています。
中国人らしい男前ですね。
- 2014/11/12(水) 00:02:58|
- 料理
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「この甘さは、どこから?」
「酢ですね。酢を熱すると甘みが出るんですよ。私ら中華の世界では、酢をちゃんと使えるかどうかは大きいです。」

「私らが修業のころは玉杓子や中華鍋が飛んできたり、いきなり尻をけ飛ばされたりした。」そうです。
「味も、調味料をいつどれくらい入れるかなんて、全然教えてもらえなかった。」んだそうです。
「私らの先輩はもっとひどかったんじゃないですか、扱われ方が。」

先日、楽天の星野監督がやめるというニュースを聞いて、また持ち上げ記事を読まされるなあとあまり愉快ではありませんでした。
チームの成績不振や選手のミスに対して椅子をけ飛ばしたり暴言を吐いたり選手を罵倒、時には鉄拳を振るうなどおよそスポーツの指導者にふさわしくないし社会人としても大問題の人物ですが、マスコミは変に彼を美化します。
大学などの体育会系サークルに依然としてはびこっている暴力体質、人権無視の体質の象徴のような人物が星野氏だと私は思ってきました。
根性だ、やる気だ、闘争心だと、それらは全部選手に「欠けているから負けるんだ」というものです。
監督にそれらが備わっていることを見せるためには審判に罵詈雑言で抗議したり、乱闘を助長したりするのです。監督自身の選手育成やコーチとの意思疎通に問題があり指導・助言が適切でないから若い選手が「できない、しない」のでその逆ではないという自覚、認識をお持ちでない人のように人に私には見えます。

おれがこう育てられたから、育ったからこうする、というのは指導者としては、賢明な考え方だと私は思えません。
指導・援助と、被指導・被援助を客観的に意識化していないからです。
私がこんなことを書いているのは調理人の世界にありがちな、徒弟奉公時代からの悪習に対してこの人が、ちょっと違う行き方をしているように見えたからです。
この時も、背中で「ちゃんと教えた通り包丁が使えてるか?」と見ているし、問いかけているのです。

若い衆は、また彼は彼で、包丁をできるだけ速く使おうと懸命です。
率直にいえば、速くしようとして力が入りすぎていると感じられます。でも、それはそれで仕方がないことで「包丁を一人前に使いこなしたい。」と思う彼の意欲の結果ですから。そう思わなければ力も入り(すぎるほど入り)ません。
「怪我をさせて休まれたんでは元も子もないからねえ。」と笑いながら、包丁の中ほどを使う意識で切るんだぞと、繰り返します。
私は、わきの締め方、手首の硬さ・柔らかさなど・・・、スポーツにも通じるなあなどと感心しながら・・・・。

私は、この店に行って、この若い衆がひつと一つ助言を受けながら「はいっ! はいっ!」と
「こいつは返事はいいんだけど。」などとからかわれながら、それでも持ち前の愛嬌のある笑顔で頑張っているのを見るのが楽しみなのです。


このお店に行くと、ついついカメラを出してしまいます。
- 2014/09/23(火) 00:02:25|
- 料理
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
前のページ 次のページ