会場を一巡りします。
なんだろう、何を表現しようとしているんだろう、自分にこうしたものを鑑賞する素養がない分よく見るようにします。
(そういう意味で写真は『一目見たらわかっちゃう』と一般に思われているように感じます。少なくとも私のものなどはそうですね。)

この人の作品の含意は現代的に意味があると思います。
というかまさに現代を写していると思いました。
「現代と取り組まないものは作品とは呼べない」(誰かがどこかで言っていたような記憶が)・・・・私もそう思います。

「神は死んだ」と言われる時代は、誰でもが「超人」として正義を振りかざせる時代でもあります。
不遜が正義となる時代!!
そして正義が乱立して、果てしなく諍う時代です。

この人の作品の眼目はそこにあるようです。
昔、あるスーパーヒーローの登場するTV番組で「正義の味方よ良い人よ」と歌われました。
今ではそのように手放しで正義をかざし、よい人ぶることはできません。そういうことに対しては鼻白む時代でもあります。

それは価値が相対化した時代だとは、ずいぶん以前から言われてはいますが、こうして「相対化した」という事態に対してどう対処するかという、個人としての、またマスとしてのありようが不安定なままです。
そこにまた、その相対的で確定しないことに対するイライラ感や不安感からオカルトへの憧憬や、強いリーダーへの拝跪や屈従した思考停止の態度が蔓延するようになってきています。

これはアメリカの国民大衆の動向にも我が国の少なくない人々の意識状況にも顕著に表れています。
ここに一つの現代人が正面から見なければならない問題があるように思います。
そしてこの人はこうした問題をこのように表現しました。
十字架にかけられたウルトラマンは、決してキリスト教を揶揄しているわけではありません。もっと普遍的な提起です。

「だから、一神教の世界は・・・」といい、「我が国は多神教だから・・・」などと言っても何の慰めにもなりません。
若い院生が、こうした作品を提示していることに注目したいと思いました。
- 2016/04/06(水) 00:00:28|
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早いものですねぇ。もう10月も後半に入ります。
毎日うっかり過ごしているものですから、気が付くたびに「えっ?! もう・・・・なの。」と思うのですが、それを繰り返してしまうところが私の弱点ですね。
秋の気配はどんどん深まって、京の山にもそこここに赤いもの黄色い一叢が目立ち始めています。
この時期は各家庭の庭木の手入れが盛んで、植木職人さんたちは忙しそうです。
我が家の「猫の額」はどうしましょうか。
というようなことはまた考えるとして・・・・・。
私の毎週のルーティンのなかにこのギャラリーを見ることがあります。
今週は、この人が個展をされていました。
金 基永 さんです。

作品は自転車や岩やバイオリンなどをボディーにして、それにタールのようなものでコーティングしたものです。表面はざらざらした質感と黒々した肌に・・・・何か光るものを配合しているようで・・・・・、キラキラした表情です。

4年間日本の大学の院に学び、今年の春に卒業して、現在も京都で活動しているそうです。
いろいろお話したのちに、事情を話して写真を撮らせていただくことになったのですが
「作家として撮りたいのですが・・・・・、今回の自信作というか、一番気にいっている作品はどれですか・・・・。」
「う~ん・・・・・・・、そうですねぇ。」
・・・・・・・・・
「一番うまくいかなかった、課題が残る作品はこれですねぇ。」
勿論、言葉が通じなかったから行き違ったのではありません。やはり作家としてただ成功したものに意識が行くのではなくて、心に残るのは「宿題」なのだと思います。
それで無意識にその作品に近づいて行ったのだと思います。

その心理は少しわかる気がします。
この作品は動物のぬいぐるみがボディーになっているのだそうで、それを樹脂で固め、さらにタール用のものでコーティングしています。
彼は「真実という言葉の『真』と『実』という事を考えているんです。」という事を繰り返し話していました。
その表現の一つの切り口として「書」の一筆、一本の線を表現したいというコンセプトの作品もありました。
日中韓には「書」という共通文化がありますから、その点はお互いに理解しあいやすいようです。

まだ試みは始まったばかりで、「ほんとにはじめの一歩です。」とのこと。
私も一知半解の感想ですが、率直な話をしますと、実に謙虚に耳を傾けてくれて、一緒にこのコンセプトの可能性について話し合うことができました。
次の個展がとても楽しみです。

中韓の若者の多くには高齢者に対する敬意ある態度がありますから、私などの話にも気持ちよく対応してくれます。
また彼らの作品には大きなエネルギーを感じますから、日本の青年作家たちにまま見られるテクニカルなモノよりも、もう一度それがなんであるかを見てみようという気にさせてくれます。

欧米のすべてを表現しきるような、見せつけるような、言葉を変えて言えば創作者が表現しようとするものを一義的に鑑賞者に受け取らせようとするような作品とはちがう、いわく言い難いものを表現するような態度が、この青年作家のもつ創造精神と我が国の伝統的なそれとに共通するものとしてあるようにも感じました。
「50年代60年代の人たちにとって『自然』なものと言えば木や土などであったけれど・・・・私は自然なものという事でそういう素材を追いかけてきたのですが・・・・私たちの年代の幼少期にはすでにそうしたモノに触れることのできる環境はなくて、アスファルトやコンクリートが「自然な環境」だったという事実があります。そこでこうした作品を作ったのです。」
作家たちは私たちにいろいろな気付きを提供してくれるのです。
- 2015/10/16(金) 00:01:47|
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ガラス工芸作家さんです。
昨日と同じ「西利」で開かれている 『ガラテキトウキ? 5人展』 に出品されています。

キノコや、その胞子をイメージしたような作品。
ウジ虫のようなものが蠢き、湧きだしたご自身の肺や脳などの切断面をイメージした作品。
花弁をイメージしたものなどが展示されています。

地に生える、知からすっくと立った植物のイメージがお好きなんだそうで・・・・。

自身のプロフィール用の写真にはかなり凝ったようで、ずいぶんたくさん撮ってもらったといいます。
ガラス工房で撮ったような写真ですが、ちょっとマッチしないなあという部分があってお尋ねすると、そこはリアルな「現場で制作している私」ではなくて、演出がされているのだそうでした。

作家さんとして撮っていましたが、フォトマヌカンをお願いしてもなかなか面白い写真になりそうな方でした。
関東のほうの有名大学で学んでおられますから、在廊は昨日、今日だけでしょうか。
左手に縦長に何見えるのが「肺」の断面をイメージしたものだそうです。
縦切りですね。

話は変わりますが、実は今日は家電量販店にニコンのDfやD810,D750、フジのX-T1などを見に行ってきたのです。
最初の2枚のようにAFが食いついてくれなかったり、ホワイトバランスが思うようにならなかったりと苦労するものですから、ついつい浮気心が起こるのです。
でも「帯に短したすきに長し」の言葉通りで、当面次のカメラを選ぶことはできそうにありません。
例えば、モノクロではフジくらいの階調性がほしいのですが、ファインダーがネックで選べません。
Dfは電源スイッチからして躓きます。せっかく画素数がいい塩梅なのに、高価すぎますし。

やはり今持っているカメラのポテンシャルを引き出すことを考えないといけないですね。

そういう事はまたおいておいて、
いつも感じることですが、若い作家さんたちの話を聞くのは楽しいものですね。

- 2015/10/07(水) 00:00:00|
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対面して撮っているときには話しながら、さすがに時々カメラを意識されましたが、描いているときにはまるで無関心な様子でした。
私が立とうが座ろうが、寝転ぼうが・・・それはそちらの事情で、勝手にやってくれという風情でした。

こういう尊重のされ方と言うのが撮る側としては実に快いのですね。

(事実上)初対面の大人同士で、こういう風に接してくれることが、これもまたうれしいことで、・・・写真というある意味自分の生のままをさらけ出すことになることに付き合ってくれるのですから・・・・・
「まあ偶然でもあるし必然でもあるんだろうね、こういう風に出会うということは・・・・」と私と同じようなことを考えておられるらしい・・・・。

私は人から見れば付き合って楽しいというような人間では全くありません。
そういうコンプレックスの穴埋めとしてこうして人物写真を撮っているのかなあと思うことさえあります。多分実際そうなんです。
ですからこういう呼吸の中に入れていただいて写真を撮れるなんて時にはワクワク感はとても大きくなるのです。

高校時代小説や詩を書くことに熱中する時期が・・・・多くの人が経験することだと思いますが・・・ありましたが、あまりに自分をさらけ出すことになるので、とても自分にはやりきれないと早々にやめました。周囲に異常な才能が幾人も存在していたからということも大きな理由としてありましたが。
今使っている「ペンネーム」はそのころのものです。

実は…なんていまさらいうことではないですが・・・写真もまた自分をさらけ出すものであることは間違いないのですから、その恥ずかしさにどう対処していくかと言うことはやはり今でも私にとっては面倒な課題ではあるのです。
まあ、その一方で、どこかに「俺が俺が」という自己顕示の気持ちも強くあるんでしょうね。
気恥ずかしさと自己顕示欲とがせめぎあっておろおろしながら撮っているということでしょうか。
それを素敵な出会いが、出会った人たちが背中を押してくれるのでかろうじて『撮ろう』というほうが勝つことができているのでしょう。
どうですか。こんなシャツを着て街を歩いてみたくないですか?
こういう写真を組んで、グループ展に臨むのもありでしょうか。


- 2015/07/24(金) 00:00:21|
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カテゴリーは「オブジェ」になっていますが絵も描きます。 紹介は造形作家です。
私は門外漢ですから、この人がどれほど有名な方なのか知りません。
ですが、このギャラリー、JARFOといいますが、その20周年特別企画展第一弾に選ばれるほどの人です。
昨日、先着しておられたお客さんもこの方の友人で陶芸家でした。
私が撮りたいものの一つが作家たちの制作の姿ですから、ワクワクします。
この長い定規は永い間使っているもののようですが、「このシしなりなんかを感じながら紙に向かうと気が入るんだよね。」といかにも年季の入った定規です。
モノが五感に協動するんでしょうか。
そういうものかもしれません。良いカメラを持つと感性が働く感じがするのと同じでしょう。・・だから私はファインダーにこだわるんですけど・・・・

これをチルト式、バリアングル液晶画面で見て撮れば、コンクリートの床にあおむけに寝たり腹這いになる必要はないでしょう。
ですが、私は仰向けに寝て、腹這いになってファインダーをのぞいて撮るほうを選びます。
絵を見て撮るんじゃなくて、対象を見て撮るという感覚が…あくまで思い込み的感覚なんでしょうが・・・・欲しいんですよね。

仰向けになってカメラを構えているところにギャラリーの責任者の方がドアを開けてはいってこられました。
高齢者があおむけに倒れている!!すわ!何事ならん?! と一瞬驚きの声。 そりゃそうでしょう。
まあしかし、多かれ少なかれ変わり者である作家たちに普段から接している老練の方ですから、何だそういうことか、「コーヒーでも飲みますか?」
この個展のサポートをしてくれた若者へのお礼として白いシャツの背中に絵を描いているのです。
それが、ささっとサインをするというようなのではなくて、これ自体一つの作品となる意気込みなのです。代表作のデザインを再現されているようなのですが、これはおしゃれなシャツになります。
多分「おしゃれなシャツですね。」では済まないものなんでしょうが。
正直、私も欲しい。

今年、文化勲章をもらうほどに功績のあった伝統工芸士の方をそれと知らずに気楽に撮っていたほど無知が取り柄の私ですから、この時もただただ「楽しい!!」で撮っているわけで、・・・・。

こういう時に、つい自分の腕や知識の不足を顧みないで「もう少し高性能なカメラであれば」なんて不遜なことを考えてしまいます。
もっと思い切って感度をあげればよいのではないかとも思うのですが。
α900の高感度性能もAF性能も最近のものと比べればやはりいささか届かないきらいがあります。
ですが、それでもこれは手放せません。

撮る対象に恵まれているのですから、そこから一歩も二歩も進まねば。

和田さんと、この麻谷さんの専属カメラマンになったら、どんな未知の世界を見ることができるんでしょう。
麻谷さん、後で後悔しても知りませんよ。
- 2015/07/23(木) 00:00:17|
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