土曜、日曜には職人を目指す若い人が公開実演をしている。まだ職人養成のための学校の現役の学生さん。
ウィークデーにはすでに職業的職人として活動している卒業生が実演をしている。昨日の仏師さんは後者。
私はその両方を見るのが好きで時々思い立って出かける。今日は昨日の仏師さんの写真を届ける都合もあった。

竹細工の場合、編む作業よりこうして素材を加工して準備する方が時間を要する。
作業全体の7~8割はこうした下準備に費やす。
これをおろそかにするとよいものは作れない。とはいえ、なかなか辛抱の要る仕事だと思う。

私たちが子供の頃は身近に幾つもの刃物があった。
そして刃物は子供にとっての大切な遊び道具だった。
使い方はきちんと親から教えられたが、年上の子供が教えることも多かった。怪我をしながら使い方を学んだ。
けがをしないで遊ぶという事は親も子も考えてはいなかったように思う。
重大な怪我にならぬようにここから先はダメ、こういう使い方をするものに刃物は使わせないと厳しく言われた。刃物を取り上げられることは「一人前の」子供としての遊びに参加できないことを意味した。

鉛筆は無論、自分で削った。肥後守は宝物だった。
子供が怪我をするのは当たり前だったし、一つや二つ怪我のアトのない子はいない。
危ないところだったというケースもままあったから、もう少し安全に気を使った方がよかったということもできよう。

社会の発達の歴史区分の命名≒指標には「旧石器時代」「新石器時代」というのがある。
旧石器時代は食料の採集時代であり新石器時代は食料栽培時代だ。縄文も弥生も後者に属する。
利器というのはこの段階の生産過程において重要な意味を持っている。だから指標の一つになりえた。
その刃物が私たちの生活からどんどん姿を消している。
遊びからも台所からも。

F・エンゲルスは「労働こそが人間を作ったと言ってもよい」と指摘しているが、
こうした道具を使った加工作業は人間に手指などの巧緻性、目と手の照応、材料の性質の学習などなど人間としての重要な要素を人間に提供してきた。

便利になったのだから、そんな古臭い作業はいらないということはできないと思う。
飛行機や新幹線、自動車やモーターバイクが普及しても人間にとって歩くことを欠かかすことができない。そういう事にあまり頓着しないと若者姿勢がよくなくなる。
スポーツは人間の基本的動作をより重視して訓練する。人間としての身体性の土台だからだろう。
切る、叩く、練る、結ぶなどの作業は人間的感性が育つ土台となる。

早期教育の名のもとに英語や算数の学習を幼児段階でさせるのをよく目にし耳にする。それを全面的に否定する気はないが、小学校入試にも中学受験にも直接には役に立たないこういう基本技能を身に着けることには人間的な感性と身体能力を育てるという重要な意味があると私は思っている。
段取りをつけ見通しを持つという様な能力を育てることも忘れてはいけないし、モノが作られるという事の原初的な体験をするという事もまた大切だと思うからだ。そうでないと生産者を想像し、また製品の質を考えるよい消費者にもなりにくい。生活者として偏頗になるようにも思う。
- 2016/07/20(水) 00:00:35|
- 工芸
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何時もご訪問有り難うございます。
肥後守・懐かしいですね。小刀が身近にあった時代とは違い・・今は子供もスマホ。時代が変わりましたね。
「・・感性」の問題か・・最近の事件は怖いですね。
- 2016/07/20(水) 11:23:24 |
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- 走れ‼でんどう三輪車 #-
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