京都にはご存じのように清水焼というものがあります。
ですが、私はあまりその世界を知りません。ですからこうして見せていただく機会は、私には貴重です。

ちょうど東京から芸術系大学の学生二人が観光を兼ねて来館していました。
その片方の人のお母さんが陶芸をされているという事で、盛んに話しかけていました。

茶道用の茶碗を作っています。
「お稽古のためのもの」だそうです。 最近は茶道をする人も徐々に減って「あまり多種多様なものを作らなくなった・・・。」
実は上の写真から、この写真までには少しばかり時間が流れています。
というのも学生さんとのお話も合ったのですが、手を休められていて、撮りにくかったのです。
それには事情がありました。

実は・・・・書いてはいけないことなのかなあ・・・・こうして作陶しても「商品にはならない」のだそうです。

というのもこうして轆轤で作ったものは、ここで乾燥させられないし、そうかといって持ち運べない。まだ乾いていないので歪んでしまうんです。
で、実演出作った物は「残念ながら・・・」またもとの土の塊に戻されるのです。
「だから、ちょと制作意欲がわきにくいんだよね」。とのことでした。

それはそうでしょうね。
で、「ではありましょうが、そこを何とか・・・・。」と冗談交じりにお願いすると、制作を始めてくれました。

そして、「やっぱりこうして熱心に撮ってくれるとこっちの気持ちも・・・。」
と、次第に集中していくのが分かります。
やっぱりご自身の生涯を注いでモノ作りに携わってきた人の矜持とでもいうんでしょうか、「気質(かたぎ)」とでもいうんでしょうか。

やはりプロフェッショナルですね。
こういう心意気を感じると、やはりこちらも同様に力が入ります。
このやり取りは「人を撮る」の醍醐味の一つですね。
将棋などの棋士が「強い相手とやって、相手がいい差し手を繰り出してくれてこそ自分の方もありったけを絞り出していい将棋を残すことができる。そういう将棋を指した時に勝敗を越えた達成感を感じる。」という様な事を口にされることがあります。
良いピッチャーがいてこそ良いバッターの良いものが引き出される、という事と同じですね。
私自身はそうして眼前の職人さんの気迫に応答して、・・・・・それに応えられているかどうかは別として、・・・・うれしい幸運な体験をしていると思います。
- 2016/03/28(月) 00:00:22|
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