この人が最初に京都に足場を作ったのは何年前だったか。
このギャラリーのオーナーの前川氏の尽力によると聞いている。以後、京都にも多くのファンを獲得して法然院で年に一度、演奏顔を開いたりしている。
楠田さんがこのギャラリーに縁を結んだとき、たまたまこのギャラリーでは私の写真展が行われていた。
彼女がそう記憶しているのは、それだけ、新たな場所に踏み入った新鮮な印象があったからだろう。

その写真展は、高瀬川に数台の床を置いてそこで手品あり、喫茶あり、二胡の演奏有りなどなどの楽しいイヴェントが開かれた時だ。
変わったこと、変化を好ましく思わない心性が、「京都人」の一面にはあるらしい。この付近の地元の方の中には、こういうイベントを苦々しく思っていた方々もあったらしい。

私はと言えば、そのイベント企画の一環として、「にぎやかし」で写真を並べたという半分の事情もあったので、「個展」の数には入れていない。
まあ、準個展とでもいおうか。他に3回ほどこのギャラリーで私の写真だけの展示をした。
今年の10回目の個展に加えて、この準個展が4回。京都ファンだ―倶楽部のグループ展への参加が今年で8回目。
恥ずかし気もなく人前に自分の写真を展示してご覧に入れたのが、都合22回にもなることに気づかされた。

この人の魅力をきちんととらえたいと思うのだが、なかなかその機会を得ない。
演奏時に撮るのは、様々な支障があるが、彼女は自分の裁量の効く範囲で、いろいろ工面はしてくれる。
が、私の技量が届かない。

この日は、このギャラリーの最終規格として日本画家の鈴木靖将氏の作品展が行われている。
鈴木氏はこのギャリーのこけら落としの際も作品を展示された人。 オーナーと縁の深い人だ。

その鈴木氏が万葉集に題材をとって美人画などを連作したが、そのモデルの一人として、この楠田さんも描いている。
魅惑と知性を併せ持つ人だから、書きたいと思われるのも宜なるかな、だ。
- 2023/12/05(火) 00:00:04|
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この建物の近所の方が差しいれを持って覗きに来ていました。
地域の人々に支えられるような活動はいいですね。
そして、そのご夫婦の娘さんは、たぶんキャノンの5D系に50ミリ1.4かなというレンズをつけて撮っていました。
普段からウェディングなどを撮っているらしいです。
どうやら本番の撮影もするようです。

色々なところに写真を志す人がいますね。
先日、ユーチュ―ブで写真家Ryo氏がある写真史の企画と、それに応じて作品を出している「大御所ら」に厳しく苦言を呈していました。
彼はいつも敢えて激しい言葉で挑発的に、日本の写真をめぐる状況について批判的な発言をしていますが、このポートレートとヌードを絡めて企画については一層厳しい批判でした。
私は彼の多くの主張に賛同するものですし、この動画での彼の発言にも耳を傾けたいなと思いました。
日本の芸術の他の分野についても彼の指摘は当てはまるものが多いように思いますし、もっと批判されている人たちの反論が欲しいように思っています。
ユーチューブの写真関連の界隈を見ても彼の言葉に正面からかかわろうというモノが見当たらず、「無視」を決め込んでいるようです。

その「無視」の態度にも、日本のに各分野の思潮の傾向と共通するものを感じて、批判されている内容と共に、がっかり感が大きいですね。
娘さんのような若い撮り手たちが新たな機運を盛り上げてくれるといいなあと思います。

このダンサーたちの舞台が、ご近所の人々にどんな反響を持って迎えられるか、興味のあるところですね。
こうしてリハからの様子を見学している人はきっと、当日だけの観覧の人とは違った感興を抱くのではないかと思います。

地元の人たちとの交流からこのダンサーたちも新たな刺激を受けるに違いないでしょう。
私自身、個展を繰り返してきて思うのは、表現者と鑑賞者は一体になって創造すると言うことですね。
作る側にはよい自己反省の機会ですしね。
2024年の11回目の写真展の実現に向けて、私も動かねばなりません。
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- 2023/12/04(月) 00:00:02|
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無言劇を「ダンス」で表現すると言ったらいいのでしょうか。
お互いの動きは「楽譜に表してある」というような感じで、「拍」で動きが決まっているような形式・・・かな。

私は通してみてはいませんから、見当違いかもしれませんが、どうやら一幕一場のようです。
私の知り合いの今女性は、まだ二度目の舞台経験ですが、この二人の男性と、今日は夜にならないと合流しない女性は経験者です。
写真の右の男性は、今ほほを強く打たれて崩れ落ちていくんですが、・・・上の倒れたポーズもそうですが…なかなか上手です。
脱力して重力に任せて崩れるような演技は難しかろうと思います。

彼女は二度目とは思えないほどよく演じているように私には見えました。
頭のいい人で、良く動きの流れを把握しています。
全員が集まって稽古する機会をなかなか取れないようで、今横たわっている男性は、北陸の方から稽古に来ているようです。
それで演出をしている男性からは様々なコメントのついた動画などが送られ、そうしたモノのやり取りで、間の稽古を自主的にしているようです。
今までは対面でしかできないことを、様々な機器を利用することで、この世代の人たちは、様々なことを可能にしているようです。

それでもフェイス トゥー フェイスでしか作り上げられないのがこの分野の「表現」です。
全身で、皮膚感覚で、他の演者の動きや表情との交感をしなければ、決して成り立たない分野だと思います。

そこにリアルな稽古の必要性があります。
この人たちもいろいろ工夫をし苦労をしてそういう機会を作っているようです。
そういう一瞬一瞬が財産になっていく人生の時期ですね。
見ていて羨ましくてなりません。
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- 2023/12/03(日) 00:00:04|
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少し前に美術館で出会って、撮影の機会をもらったHさんが、とあるダンサーたちの取り組む舞台に参加することになった。
それを聞いて「撮りたいなあ。」とつぶやいたら、つないでくれて「了解」がもらえたので、リハのある日に「おっとりカメラ」で押しかけました。

舞台稽古は、中心人物の自宅兼…の築150年?という古民家でした。
自動車で行くしかない山の上の方。
「このまま走っていくと道は狭くて離合できないし、果たしてUターンだってできる場所があるんだろうか。」という、私がまだ行ったことがない、でも確かに西京区の範囲でした。

古民家だというし、たぶん、軒が深いし部屋は暗いのではないかと。
それに演技者との距離も事前にはわからないので、可に照明も含めて、可能な限りの装備を持っていきました。
でも、ここが本番の舞台にもなると言うことでそれなりの照明も設置されていて、ISO2000ぐらいにして撮るkとにしました。
演じる内容は、どうもランタンがカギになるようなものらしくて、多分そのランタンの光も演出上大切になるのではないかと・・・。
で、本番は窓には暗幕を下ろして、かなり暗めの演出になるようです。
そのための設定がされていたのですが、撮影のために一つの窓の暗幕は巻き上げてくれました。

「人見知り」の私は・・・以前の音楽のリハの撮影の時も、自己紹介すらしないままに、隅に立ったまま、ひたすら黙って開始を待ちます。
私はこうした時、一人だけ無関係な者が紛れているという「孤立感」というか「孤独感」にとても弱いのですが、いい年をして、ほかにどうしようもないのです。

ただ、何かの都合で、役割を果たさなくてはいけない羽目になっている時には、全然別人格になって、人前に立つのです。
それで、ずいぶん誤解されてきているのですが、・・・それはどうでもいいことで、・・・とにかく、「撮りたい」という気持ちが勝って、こういうことになっているのです。
ここにはきっと良いシャッターチャンスがあるはずですから。
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- 2023/12/02(土) 00:00:05|
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私の悪くなった目で遠くから見たら「二胡」を弾いているのかと思ったらば、馬頭琴でした。
久しぶりですね、馬頭琴は。
近くによって自転車を停めて、目礼をしてしばし耳を傾けさせていただきました。

きれいな楽器です。
しかも、演奏が「うまい!」
「プロの方ですよね?!」 「はい、まあそうですが。」
確かに、精度が高いばかりではなくて、聞かせる演奏です。

いわゆる馬頭琴がこういう形になったのはそう遠い昔ではないそうで、ほんの少し前までは移動する遊牧民にそれぞれの集団によって形が違っていたのだそうです。
それは演奏する側も耳を傾かる側も分散した集団の中で完結していたからに違いありません。

それがモンゴルも「国民国家」を形成していくうちに…日本の伝統的な楽器も同じですが…形も音程も次第に統一されていきます。
それがいい事か悪い事か、判断は分かれることでしょう。
ですが、「地方語(方言)」が駆逐されて『国語』という名の「標準語」が作られていくのと同じことです。

楽器の形も「洗練」され、統一化して生きますし、それと並行して「西洋音楽」との共役性を要求されていきます。
日本の尺八でも琵琶でも独特な「倍音」が混じり、ガキごとに音程が違っていたわけですが、今や洋楽器との合奏が可能になりました。そのためには西洋音階に従うしかありません。

音量だって大きくならざるを得ませんよね。
移動する一族やそれにいくらか加わった程度の集団が火を囲んで演奏し歌い踊っていたときに必要な音量と、大きな演奏会場で千余の聴衆に届くように演奏するのとではおのずから要求されるものが違います。
音楽の市場も「世界≒欧米」に広がれば、欧米の耳を意識せざるを得ません。
そうして音や音楽の相の多様性はどんどん消滅していきます。
それは同時に音楽の多様な可能性を失っていく過程とも言えます。

この方がある人物の言葉としてよいことを教えてくれました。
「音楽に国境はないというが、音楽に国境あれかし。」と。
排他的で狭小な視野しか持たないナショナリズムではなくして、・・・・グローバリズムに巻き込まれるのではなくて…外に開かれたナリズム。ナショナリズムを根城にした世界性、インターナショナリズムが目指されるべきでしょう。
この二弦の「上の方の弦」は親指で押さえたり、押したりして音程を作ります。
二胡にしても、馬頭琴にしても「二弦」しかないのに実に複雑な演奏ができます。人間の探求力というのはすごいものですね。

「馬頭」の下には龍がいました。これが最近の定番の形だそうです。
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- 2023/12/01(金) 00:00:09|
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